ロアンの書棚
写本室は、神殿の中でアルテが一番苦手な場所だった。
別に怖いわけではない。ただ、背の高い書棚が迷路のように並ぶあの部屋は、幼い頃に一度迷子になってから、なんとなく近寄りにくかった。ロアンはその写本室を、まるで自分の庭のように歩き回る。どこに何があるか全て把握しているらしく、目当ての写本をほぼ一瞬で見つけ出す。
今日、アルテは初めて、自分からその扉を押した。
「ロアン先生はいますか」奥の方に声をかけると、しばらく間があって、書棚の陰から人影が現れた。
「珍しい。お前が自分から来るとは」
「聞きたいことがあって」
ロアンはアルテを見て、それから持っていた写本を書棚に戻した。「入れ」
◆ ◆ ◆
写本室の奥には、小さな閲覧机がひとつあった。ロアンが使っているらしく、何冊かの写本と羊皮紙が広げられていた。アルテは向かいの椅子に座り、少し迷ってから口を開いた。
「先生が持っていた大陸会議の書簡。あれを読んでいたのは、いつからですか」
「何が聞きたい」ロアンはそのまま別の写本を開きながら、目を上げずに言った。
「先生は、ゲルアラントの人じゃないですよね」
今度は、ロアンの手が止まった。一瞬だけ。それからまた動き出したが、その静止が答えのようなものだった。
「どこでそう思った」
「大陸会議の議事録写しが、北から届いたと言っていました。届く先があるということは、誰かが送ってくれているということで——それはたぶん、先生自身が頼める相手がいる場所、ということだと思って」
ロアンはゆっくりと顔を上げた。普段と変わらない無表情だったが、その目に、何か普段とは違うものがある気がした。
「勘が良くなったな」
「違いましたか」
「——合っている」
アルテは静かに息を吸った。予想していたが、やはり胸が少し早く打つ。
「話してもらえますか」
「今日は」
「今日でなくても」アルテは言い直した。「でも、いつか。わたし、先生のことを何も知らないままでいるのが、最近気になっています」
ロアンは写本の頁を一枚めくった。それから、独り言のように低く言った。
「北の連合国の出身だ。貴族の家系だが、訳あって出た。ゲルアラントに来たのは十五年前。——それ以上は、今日は話さない」
「わかりました」
「また聞きに来てもいい」ロアンは目を写本に戻した。「——お前が来るのを、拒む理由はない」
その言葉が、ロアンにしてはずいぶん率直に聞こえた。アルテは少し驚き、それから小さく頷いた。
◆ ◆ ◆
机の上には、ロアンが調べていた写本が開いたままになっていた。アルテは帰りかけて、ふとその頁に目をやり、足を止めた。
「これ——」
書かれているのは、精霊に関する古い考察文だった。ただし、普通の精霊研究ではない。見出しには「白光の精体と人との契約様式・変遷記録」とある。
「それを読むか」ロアンが静かに言った。
「読んでもいいですか」
「だから机に出しておいた」
アルテは椅子に戻り、写本に向き合った。文字は古い書体で、ところどころ読みにくかったが、内容は驚くほど鮮明だった。
「白光の精体は、通常の精霊と異なり、特定の人間との深い共鳴を経て初めて顕現する。その顕現には条件があり、対象者が『光の道を自らの意志で選んだ』という事実が必要とされる。また白光の精体は、一度顕現したのちも長い眠りに入ることがあり、再び目覚めるには、最初の顕現に匹敵するほどの共鳴——あるいはそれ以上のものが求められるとされる」
「記録に残る白光の精体との契約者は、過去三名。いずれも光の聖女の称号を持ち、いずれも、時代の大きな転換点に立ち会っている」
アルテはゆっくりと顔を上げた。
「セレーヌ様が若い頃に会った白い精霊というのは」
「おそらく、これと同じ種類の存在だ」ロアンは静かに答えた。「セレーヌ様が話したくないのは、その精霊が——今も、目を覚まさないままでいるからだと、わたしは思っている」
「それは」アルテは写本を見つめた。「また目覚めることは、できるんでしょうか」
「条件が揃えば」ロアンは言った。「——揃うかどうかは、分からないが」
二人の間に、静かな時間が落ちた。写本室の高い窓から、白い午後の光が差し込んで、埃の粒子をゆっくりと浮かび上がらせていた。
「先生はなぜ」アルテはやがて言った。「こういうことを調べているんですか。精霊の研究は、先生の専門ではないはずですよね」
ロアンは少し黙った。
「お前が来る前から、このことを知っていた人間が、この神殿にはいる。わたしはその人間が——正しい形でお前に伝えられるよう、先に調べておきたかった」
「正しい形で」
「急いで伝えるべき話ではない。だが、知らないままでいさせるべき話でもない」ロアンは写本を閉じた。「その判断は、わたしではなくセレーヌ様がすべきことだ。わたしはただ、その時に備えている」
アルテはしばらく、写本の表紙を見つめた。
「先生って」アルテはゆっくりと言った。「ずっと、そういうことをしていたんですね。誰かのために、先回りして」
ロアンは答えなかった。ただ、かすかに目を細めた。それがロアンなりの肯定なのだと、アルテは今日初めて知った。
◆ ◆ ◆
写本室を出る間際、アルテはもうひとつだけ尋ねた。
「先生が北を出た理由——いつか、話してもらえますか」
ロアンは書棚の間に消えかけながら、振り返らずに答えた。
「気が向いたら」
「それって、話してもらえるんですか」
「——たぶんな」
アルテは廊下に出て、写本室の扉をそっと閉めた。廊下には夕陽が長く差し込んでいた。遠くから、ミラがどこかで誰かと話す声が聞こえてくる。神殿はいつも通りで、けれど今日という日は、確かに何かが動いていた。
その夜、アルテは手記を開いた。窓の外では、運河の水面に月が映って揺れていた。
「ロアン先生のことを、今日少しだけ知ることができた。北の連合国の出身で、訳あってここに来た——それだけのことだけれど、長い間先生のそばにいて、初めて聞いた言葉だった。人のことを知るのは、時間がかかる。でも焦らなくていいのかもしれない。先生も、わたしのことを何年もかけて見ていてくれたのだから」
炉端妖精がいつものように暖炉の傍らに現れ、光の珠の周りをゆっくりと巡った。アルテはその小さな温かさを見ながら、白光の精体についての記述を思い返した。「自らの意志で光の道を選んだ」——自分はまだ、その言葉の意味を、本当の意味では分かっていないかもしれない。
「おやすみ」アルテは囁いた。「——また、教えてね。少しずつでいいから」
妖精はひとめぐりして、静かに消えた。




