揺れる大陸
三日ぶりの朝の課業は、いつもより眩しかった。
神殿の中庭に差し込む朝陽が、水路の反射でゆらゆらと壁に揺れている。アルテは石畳に座り込んで精霊との感応の練習をしながら、それをぼんやりと眺めた。旅の疲れはまだ完全には抜けていないが、こういう何でもない時間が、今は殊更ありがたかった。
「姿勢が崩れてる」ロアンの声がした。「三日ぶりとはいえ、甘えるな」
「崩れてません。——少し、楽にしてるだけです」
「同じことだ」
ロアンは石のベンチに腰を下ろし、分厚い書簡を開いた。アルテが知る限り、ロアンはいつも何かを読んでいる。神殿の写本室にある文献はほとんど読んでしまったという噂もある。
「ロアン先生」アルテはふと尋ねた。「今日は何を読んでるんですか」
「大陸会議の議事録写し。北から届いた」
「大陸会議、というと——七か国が集まる、あの?」
「そうだ」ロアンは書簡から目を上げなかった。「五年に一度の定例が来年に予定されている。だが今年、臨時の会合が開かれたらしい」
「臨時? 何かあったんですか」
ロアンはしばらく黙って読み続け、それからゆっくりとアルテを見た。「セレーヌ様に聞いたほうがいい話だ。——今日の午後、時間をもらいなさい」
その言葉の静けさが、かえって気になった。
◆ ◆ ◆
午後、セレーヌの執務室には、フレンツも来ていた。アルテが扉をノックすると、「入りなさい」とすぐに返事があった。
「ちょうどよかった」フレンツが書簡の束を机に置きながら言った。「アルテにも聞いてもらいたかった」
「ロアン先生から、大陸会議の話があると」
「そうだ」フレンツは椅子を引いてアルテに座るよう促し、自身は窓際に立った。「単刀直入に話す。今年の臨時会合で、ある提案が出た。——光の聖女の、大陸共有化案だ」
一瞬、言葉の意味が頭の中で転がった。
「共有化、とは」
「ゲルアラントが擁する光の聖女を、一国のものとして留め置くのではなく、大陸全体の宝として扱うべきではないか——という主張だ。提唱したのは北の連合国の代表で、表向きは聖女への敬意と感謝を旗印にしている」
セレーヌが静かに口を開いた。「実のところ、似た動きは十年前にもあった。あの頃は前の聖女が高齢で、後継者も不明瞭だったから立ち消えになったが——今は違う」
「今は、わたしがいる」アルテは静かに言った。
「そう」
三人の間に、しばらく沈黙が落ちた。アルテは自分の手を見つめた。光の精霊使いであること、神に愛されし聖女であること——それは生まれた時から自分に備わっていたものだが、今この瞬間、それが自分ではなく誰かの利害に属するものとして語られているのだという現実が、輪郭を帯びて迫ってきた。
「どうなるんですか、この話は」
「ゲルアラントは明確に拒否した」フレンツが答えた。「聖女の意志と神殿の自治は、宗教条約で守られている。それを盾に、今回は退けた」
「今回は、ということは」
「同じ話が、形を変えて繰り返されるかもしれない。それは覚悟しておくべきだ」
フレンツの言葉は厳しかったが、アルテはむしろその正直さに安堵した。知らないまま守られているより、知った上で自分の足で立てる方がいい——そう思えるようになったのは、いつからだろう。
「わたしは、この街にいたいです」アルテははっきり言った。「ここが帰る場所だから。でも——もしわたしが動くことで誰かを助けられるなら、それは考えます。わたし自身が、ちゃんと選びたい」
フレンツとセレーヌが、互いに視線を交わした。
「充分だ」フレンツが静かに言った。「アルテがそう言えるようになったことを、わたしは嬉しく思う」
◆ ◆ ◆
執務室を出ると、廊下でエランが壁にもたれて待っていた。
「なんで知ってるの」
「フレンツ様が来ると聞いたから。大方、厄介な話だろうと思って」
「……正解」アルテは苦笑した。「聞く?」
「歩きながら聞く」
二人は回廊に出た。夕陽が運河に斜めに差し込み、波紋が壁に映って揺れている。アルテは話しながら歩いた。大陸会議のこと、共有化案のこと、フレンツが拒否したこと、そしてアルテ自身が口にした言葉のこと。
エランは黙って聞いていた。口を挟まず、ただ隣を歩き続けながら。
話し終えると、エランはしばらく何も言わなかった。
「お前は」やがて彼は言った。「ずいぶん変わったな」
「そう?」
「以前のお前なら、自分が選ぶとは言えなかった」
アルテは少し考えた。確かにそうかもしれない。ひと月前のアルテは、自分の意志を声に出すことを、どこかで怖がっていた気がする。
「怖いけど」アルテは正直に言った。「言わないより、言った方がいいって思えた。言わないままでいると、大事なことが自分の知らないところで決まってしまう気がして」
「そうだな」エランは短く答えた。それから、珍しく少し間を置いてから付け加えた。「——俺も、そういう後悔を、している」
「後悔?」
エランは答えなかった。ただ、視線を運河の水面に向けたまま、静かに歩き続けた。アルテは追いかけて尋ねる代わりに、黙って隣を歩いた。そういう沈黙の意味が、今は少し分かる気がした。
◆ ◆ ◆
夕刻、薬草園でソルテとミラと三人で過ごした。ミラは珍しく、手仕事を持ってきていた。刺繍の枠に布を張って、小さな光の花を縫っている。
「ミラって、刺繍できたんだ」
「お母さんに習ったの。最近また、やりたくなって」
その言葉に、アルテは一瞬だけ胸が痛んだ。ミラの母のことは、直接は聞いていない。ただ、もうこの街にはいないのだということは、ぼんやりと分かっていた。
「上手だよ」
「下手だけどね」ミラは笑った。「でも、やってると落ち着く。手が動いてると、余計なこと考えずに済むから」
「余計なこと?」
ミラは刺繍の針を止めた。「アルテって、来年も再来年も、ずっとここにいる?」
「……どういう意味?」
「なんか、最近いろいろあるじゃない。根域のこととか、外から来る人が増えたこととか。あたし、ちょっと、怖くなることがある。アルテがいなくなるんじゃないかって」
ソルテが静かに刺繍を覗き込みながら言った。「ミラ、気配、落ち着いてない。ずっと」
「そうかな」
「うん。かぜみたいに、ふらふらしてる」
ミラは苦笑いした。「正直に言うのやめてよ、ソルテ」
「正直じゃないと、わからない」
アルテはミラの隣に座り、その刺繍枠をのぞき込んだ。小さな花は、まだ半分しか縫えていなかった。
「わたしも、ずっとここにいたい」アルテは言った。「でも、ずっとここだけにいるのが正しいかどうかは、正直まだわからない。——だから、ミラの気持ちに、嘘はつけない」
ミラは少し黙ってから、また針を動かし始めた。
「それでいいよ」静かに言った。「嘘つかないでいてくれる方が、ずっといい」
三人はしばらく、夕陽の中で黙って座っていた。ソルテがどこかから葉を一枚拾ってきて、光にかざしながらじっと見ていた。ミラの針が布を進む細い音と、遠くの運河を行く舟の水音だけが、静かに響いていた。
夜、アルテは手記を開いた。今日は書くべきことが多すぎて、どこから始めればいいか分からなかった。しばらくペンを持ったまま、月明かりの差し込む窓辺に座っていた。
「大陸が動き始めているということを、今日初めて実感した。エランが言ったように、言わないままでいると大事なことが自分の知らないところで決まってしまう——それは、光の源が道を見失ったのと、どこか似ているのかもしれない。誰かに届く声を持つということは、責任でもある。わたしはまだ、その責任の大きさを、よく知らない」
炉端妖精がいつものように現れ、光の珠の傍らに落ち着いた。アルテはそっと囁いた。
「おやすみ。——明日も、よろしくお願いします」
妖精は小さく揺らめき、それから暖炉の奥へ消えた。アルテは手記を閉じ、布団に潜り込んだ。大陸のことも、エランの後悔の言葉も、ミラの刺繍の花も、全部明日以降の話だと思いながら、目を閉じた。




