帰路の灯
水都の城門が見えたとき、最初に駆け出したのはエランだった。
「おい、待て——」カゲが呆れたように声をかけたが、エランは振り返らずに走っていく。アルテは思わず笑ってしまった。いつも冷静なエランが、こんなふうに我を忘れる姿は珍しい。
「何がそんなに急いてるんだか」
「たぶん」カトがぽつりと言った。「お前さんより先に、誰かに報告したいんだろう」
「わたしより先に?」
「アルテが無事だったって。お前さんの口から聞くより先に、誰かに伝えたいんだ。——わかるだろう、そういう気持ちは」
アルテは少し考えて、それから小さく頷いた。わかる気がした。誰かの無事を、自分の声で誰かに伝えたいという気持ち。
◆ ◆ ◆
神殿の門をくぐると、待っていたのはセレーヌだけではなかった。ロアン、ミラ、ソルテ、そしてベルトまでもが、まるで何日も前からそこに立っていたかのような顔で出迎えた。
「アルテ!」
ミラが真っ先に駆け寄り、何も言わずに抱きついてきた。アルテはその勢いに少しよろめきながら、友人の背中を抱き返した。
「ただいま、ミラ」
「おかえり……おかえり、もう、本当に、心配したんだから」
ミラの声は涙交じりだった。アルテはその髪を撫でながら、視線をソルテへと向けた。ソルテは少し離れた場所で、けれどまっすぐにアルテを見つめていた。
「気配、丸くなった」ソルテが小さく言った。「アルテの、まわりの気配。前より、ずっと丸い」
「うん。——うまく言葉にできないけど、何かが変わった気がする」
「ちゃんと、教えて。あとで」
「もちろん」
ロアンは何も言わず、ただアルテの肩に一度だけ手を置いた。その重みに、これまでの彼の沈黙の全てが込められているようだった。アルテは小さく頭を下げた。
「ロアン先生。歴代聖女の記録、役に立ちました」
「そうか」ロアンは短く答えた。それから、少し迷うように付け加えた。「——無事で、何よりだ」
たったそれだけの言葉が、いつもより温かく響いた。
ベルトは何も言わずに、ただアルテの手を取った。皺だらけの手のひらは温かかった。
「帰ってきたな」
「はい。帰ってきました」
「それでええ。それだけで、ええんや」
◆ ◆ ◆
セレーヌの執務室で、アルテは黒の根域での出来事を詳しく報告した。光の源との対話、その孤独の正体、そして道を取り戻しつつあるらしいこと。エラン、カト、カゲ、ルインも同席し、それぞれの視点から見たことを補足した。
セレーヌは静かに耳を傾けていたが、報告が終わると、しばらく目を閉じたまま何も言わなかった。
「セレーヌ様?」
「——少し、昔のことを思い出していたの」セレーヌはゆっくりと目を開けた。「わたしが若い頃に出会った、あの白い精霊のこと」
「あの方とこの度の光の源は、関係があるのでしょうか」
「分からない。けれど——もしかしたら、あなたの精霊たちの誰かは、あの白い精霊と同じ場所から来たのかもしれない」セレーヌは窓の外、神殿の尖塔の方を見やった。「いずれ、ちゃんと話すべき時が来るのでしょうね。わたしの話も」
その言葉には、これまで聞いたことのない重みがあった。アルテは黙って頷くにとどめた。今はまだ、急いて尋ねるべきではない気がした。
「ともあれ」セレーヌは表情を改めた。「よくやりました、アルテ。——いいえ、皆さんも。本当に、ご苦労様でした」
「報告は以上です」エランが付け加えた。「ただ——フレンツ様にも、お伝えするべきかと」
「そうね。使いを出しましょう。——おそらく、今夜にでも訪ねてくるでしょうけれど」
その予想は、半分当たって半分外れた。
◆ ◆ ◆
夕刻、アルテが自室の窓から運河を眺めていると、見覚えのある茶色の上着の人影が、神殿の階段を駆け上がってくるのが見えた。
「フレンツさん」
「アルテ」フレンツは息を切らしながら、それでも穏やかな笑みを浮かべた。「無事だったか。——いや、無事だという報告は受けていたが、自分の目で見るまでは」
「心配をおかけしました」
「当然だろう」フレンツは少し呆れたように言ったが、その声には隠しきれない安堵が滲んでいた。「お忍びで来た意味が、今日ほどよく分かったことはない。王として聞くより先に、フレンツとして顔を見たかった」
二人はしばらく、何も言わずに並んで運河を見下ろした。夕陽が水面に反射し、街全体が淡い金色に染まっていく。アルテが幼い頃から見慣れた光景だったが、今日はいつも以上に美しく見えた。
「黒の根域のこと、詳しく聞かせてくれるか」フレンツが静かに尋ねた。「王として、知っておく必要がある」
「はい」
アルテは改めて、光の源との対話を語った。フレンツは黙って聞き、時折小さく頷きながら、最後まで口を挟まなかった。
「——道を見失っていた、か」フレンツは話を聞き終えると、ゆっくりと呟いた。「それは、何だか——人にも似ているな」
「人にも?」
「ああ。誰も訪れなくなれば、人だって自分の居場所への道を見失う。国だって、そうかもしれない。長く忘れられれば、自分が何者だったかさえ、分からなくなる」
その言葉に、アルテはふと、辺境国家としてのゲルアラントのことを思った。大陸の大国から見れば「田舎」と呼ばれ、長く忘れられていたこの国。けれど今、少しずつ外の視線が向き始めている。
「フレンツさんは、この国が忘れられないように、と思っているんですか」
「そうだな」フレンツは少し笑った。「だが、忘れられないことと、巻き込まれることは違う。そこの線引きは、わたしの仕事だ」
「わたしにできることがあれば」
「今は、ゆっくり休め。それが何よりの仕事だ」
◆ ◆ ◆
夜、自室に戻ったアルテは、窓辺に腰掛けて街の灯りを眺めた。運河沿いの灯籠が、いつものように水面に揺れている。神殿の鐘楼からは、夜警の鐘がひとつ鳴った。
何も変わっていないようで、けれど確かに何かが変わった一日だった。アルテは懐から手記を取り出し、ペンを取った。
「帰る場所がある、ということの意味を、今日はいつもより強く感じた。ベルトさんの言葉が、ずっと胸に残っている。当たり前のことを当たり前にできるのは、誰かがちゃんと帰ってくるから——わたしも、誰かにとっての『帰ってくる場所』でいられたら、と思う」
暖炉の炎がぱちりと爆ぜ、見慣れた炉端妖精が、いつものように灯りの傍らに姿を見せた。長旅で出会った似た気配のことを思い出しながら、アルテはそっと微笑んだ。
「ただいま、それから、おやすみ」アルテは囁いた。「明日からも、よろしくお願いします」
炉端妖精は小さく揺らめき、いつものように暖炉の奥へと溶けるように消えていった。アルテは布団に潜り込み、ようやく訪れた本物の安堵とともに、深い眠りに落ちていった。




