歪みの声
目を覚ますと、光の珠はまだ静かに灯っていた。
アルテは身体を起こし、自分の手を見つめた。夢を見ていた気がするが、内容は思い出せない。ただ、誰かに名前を呼ばれていたような、そんな感触だけが指先に残っていた。
「起きたか」
カトが焚き火の番をしながら、短く声をかけてきた。彼は一晩中起きていたらしい。隈のある目は、けれどしっかりと前を見据えていた。
「すみません、わたしも起きていればよかったのに」
「いい。お前さんは、別の意味で起きてた」
「別の意味?」
「うなされてはいなかったが——何度か、何かに応えるみたいに、寝言を言ってた」
アルテは自分の唇に触れた。何を話していたのか、まるで覚えていなかった。
◆ ◆ ◆
朝食もそこそこに、一行は再び根域の奥へと足を進めた。
昨日よりも、明らかに空気が変わっていた。壁を伝う光る苔の筋は密度を増し、まるで血管のように脈打って見える。アルテの周りに集まる光芒妖精の数も増え、もはや無視できないほどの輝きを放っていた。
「精霊密度、上がってるな」ルインが押し殺した声で言った。「カゲ、感じるか」
「ああ。肌がピリピリする。霊樹級になってからこんな感覚、初めてだ」
エランは黙って剣の柄に手を添えていた。彼の目には、これまでにない緊張が浮かんでいる。それでも足取りは乱れなかった。
「アルテ」エランが小さく呼んだ。「お前は、何か——感じるか」
アルテは立ち止まった。光精霊たちの声なき声が、波のように押し寄せてくる。けれどそれは、今までのような穏やかな感応ではなかった。
——さびしい。
——ながいあいだ、ひとりだった。
——おもいだして。
断片的な感情の波が、言葉のような形を取り始めていた。アルテは思わず胸を押さえた。
「アルテ?」
「声が——聞こえます。今までと違う。もっと、はっきりと」
「何て言ってる」
「寂しい、って。ずっと一人だった、って。それから——思い出して、と」
カトが眉をひそめた。「思い出して、とは」
「わかりません。でも——」アルテは前方の闇を見つめた。「向こうから、何かが呼んでいます」
◆ ◆ ◆
道はやがて、巨大な空洞へと開けた。
天井も壁も見渡せないほどの広さで、その中心に、ひときわ強い光が脈打っていた。まるで巨大な心臓のように、ゆっくりと、しかし確かに鼓動を刻んでいる。
「これが——」エランが息を呑んだ。
「光の源、か」ルインが低く呟いた。
その光の周囲には、無数の光芒妖精が群れ集い、まるで祈りを捧げるように静かに漂っていた。けれど、その光はどこか弱々しく、脈打つたびに少しずつ揺らいでいるようにも見えた。
アルテは一歩、また一歩と近づいていった。誰も止めなかった。むしろ、誰もが彼女の歩みを見守るように、後ろに控えていた。
光の中心に近づくにつれ、声はより鮮明になっていく。それはもう、感情の波ではなく、はっきりとした言葉のようなものに変わっていた。
——おまえは、だれ。
「アルテミアです」彼女は静かに答えた。「光の精霊と一緒にいる者です」
——いっしょに。
——むかしも、そういうひとがいた。
「昔も?」
——ながい、ながい、ながい、あいだ。だれもこない。みち、わすれた。
アルテは懐から歴代聖女の記録を取り出した。震える指でページをめくり、あの断片的な一節を探した。「光の源が流れを忘れた状態」——その言葉が、今ようやく意味を持って迫ってくる。
「あなたは——道を、忘れてしまったんですね」
——みち。ひかりの、みち。
——だれかと、つながる、みち。
「思い出したいですか」
光が大きく脈打った。返事のようにも、痛みのようにも見えた。エランが思わず一歩前に出ようとしたが、カトがその肩を押さえた。
「待て」カトは短く言った。「ここは——アルテに任せる場面だ」
アルテは光に向かって手を伸ばした。普段、彼女が精霊たちと結ぶ絆とは何かが違っていた。これは契約でも交渉でもない。もっと根源的な、ただ寄り添うという行為だった。
「わたしは、道を覚えています」アルテは静かに、けれどはっきりと言った。「誰かと繋がる光の道を。だから——一緒に、思い出しましょう」
光が彼女の指先に触れた瞬間、アルテの脳裏に、見たこともない光景が流れ込んできた。
かつてこの場所が、聖域として人々に守られていた頃の記憶。光の精霊使いたちが定期的にここを訪れ、感謝と祈りを捧げていた時代。けれど時代が移り変わり、迷宮としての危険性ばかりが語られるようになり、誰もここを訪れなくなった。長い孤独の中で、光の源は少しずつ、自分と外の世界を繋ぐ道を見失っていったのだ。
「——そうだったんですね」
涙が、知らぬ間に頬を伝っていた。アルテは光に向かって、もう一度はっきりと語りかけた。
「忘れられていたわけじゃない。ただ、誰も——どうやって会いに来ればいいか、分からなくなっていただけ。でも、わたしが来ました。これからは、忘れません」
光がふわりと、優しく揺らいだ。それは脈打つような不安定さではなく、まるで深く息をついたような、安堵にも似た揺らぎだった。
——おまえは、もどる?
「はい。必ず帰ります。——でも、また来ます。これっきりじゃなく、何度でも」
——まって、いる。
光の輝きが、わずかに、けれど確かに安定したように見えた。脈動が穏やかになり、揺らぎが収まっていく。完全に元通りというわけではなさそうだったが、何かが大きく変わったことは、その場の誰の目にも明らかだった。
「アルテ」エランが駆け寄ってきた。「大丈夫か。顔が真っ青だ」
「大丈夫。——ただ、少し、疲れただけ」
アルテはその場に座り込んだ。エランが慌てて支える。カゲとルインも警戒を解き、互いに顔を見合わせていた。
「これで、終わりか?」カゲが尋ねた。
「いいえ」アルテは光を見上げながら言った。「これは——始まりだと思います。この子が、また誰かと繋がる道を、見つけ直すための」
◆ ◆ ◆
帰路は、来た時よりも長く感じられた。誰もが疲労していたが、その疲労には確かな手応えがあった。光の源の脈動は、空洞を出る間際まで、穏やかに彼らを見送っているように感じられた。
森の外縁部に出る頃には、日はすでに傾きかけていた。エヴァの森の柔らかな木漏れ日が、根域の中とはまるで違う温かさでアルテたちを包んだ。
「街が見える」カトが指さした。遠く、水都の白い建物が夕陽に染まっているのが見えた。
アルテは、その光景に思わず立ち止まった。当たり前のように見ていた景色が、今は何倍も愛おしく見えた。
「光は、忘れられても消えない。ただ、道を見失うだけ。誰かがもう一度手を伸ばせば、また繋がることができる——今日、わたしはそれを教えてもらった気がする。帰ったら、まずセレーヌ様に報告しよう。それから、ミラとソルテに。きっと二人とも、心配して待っているから」
その夜、街への帰途の途中、再び野営をすることになった。焚き火を囲みながら、誰もが多くを語らなかった。けれど、その沈黙は重苦しいものではなく、何か大きなことを成し遂げた者たちだけが共有できる、穏やかな静けさだった。
アルテは焚き火のそばで小さな光の珠を灯し、いつものように囁いた。
「おやすみ。——今日は、たくさんのことを思い出させてもらいました。ありがとう」
炉端妖精に似た気配が、答えるように光の珠の周りを一巡りして消えていった。空を見上げると、地上の星々が、いつもよりほんの少し近く感じられた。




