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黒の根域へ

朝はまだ、街が目を覚ます前の色をしていた。


水路の水面には霧が薄く這い、神殿区の白い石段には夜露が光っていた。アルテミアは旅装に身を包み、見慣れた鐘楼を一度だけ振り返った。光誕祭のたびに登った場所。一人になりたいときに逃げ込んだ場所。今日はそこに登らず、ただ見上げるだけにした。


「忘れ物はない?」


セレーヌの声に、アルテははっと我に返った。大神官は寝間着の上に外套を羽織っただけの姿で、それでも背筋はいつも通りまっすぐだった。


「ありません。何度も確認しましたから」


「そう」セレーヌは小さく笑い、それからアルテの旅装の襟元を整えるように軽く触れた。「叱ることと心配することは矛盾しないのよ、アルテ。だから、これは叱る方じゃなくて」


「心配する方、ですね」


「ええ。——必ず帰ってきなさい」


その言葉に、いつものような重みはなかった。命令でも祈りでもなく、ただ一人の年老いた女性が、一人の少女に向ける当たり前の願いだった。アルテは頷き、セレーヌの手をそっと握り返した。


少し離れた場所で、ロアンが腕を組んで立っていた。何も言わず、ただ小さく頷く。それだけで十分だった。彼が精霊の記録を渡してくれたあの日から、アルテはこの人の沈黙の意味を、少しずつ読めるようになっていた。


「行ってらっしゃい、アルテ」


ミラの声は、努めて明るかった。けれど目の縁が赤い。アルテはミラの手を両手で包んだ。


「行ってくる、じゃなくて、行ってきます、よ。ちゃんと戻ってくる場所があるんだから」


「うん。——うん、知ってる」


ミラは笑って、それから少しだけ泣いた。隣でソルテが、ミラの背中にそっと手を添えていた。ソルテは何も言わなかったが、その代わりに小さな布袋をアルテの手に握らせた。


「気配、丸い」ソルテはぽつりと言った。「黒の根域の、入り口のほう。とがってない。たぶん、まだ大丈夫」


「ありがとう、ソルテ」


「中は、わからない。深いところは、感じたことない」


「うん。気をつける」


布袋の中身は、薬草園で育った葉陰妖精の好む乾燥花だった。何の役に立つのかはわからなかったが、それでもアルテは大切に懐へしまった。


最後に、ベルトが歩み寄ってきた。老人は何も持たず、ただアルテの顔をじっと見た。


「わしの村は、戻る場所がなくなって、初めて分かったことがある」老人は静かに言った。「帰る場所がある、いうんは、当たり前やない。当たり前やないことを、当たり前にできるんは——お前さんがちゃんと帰ってくるからや」


「帰ります」


「ああ。——帰ってこい」


◆ ◆ ◆

エヴァの森の入り口で、エランとカト、そしてS級冒険者の二人が待っていた。


「遅い」エランが腕を組んで言ったが、その口元はわずかに緩んでいた。「いつも通り、見送りに時間をかけすぎだ」


「悪い癖よね、わかってる」


「悪い癖だとは言ってない」


その短いやりとりに、いつもの調子が戻ってくる。第十六話の頃の険しさは、もうどこにもなかった。エランは剣の柄に軽く触れ、腰の動きを確かめるようにした。最近練習を再開したという話は本当らしく、以前より所作が様になっている。


カトは無口にいつも通り頷くだけだったが、その目には確かな緊張があった。彼はこの森を誰よりもよく知っている。だからこそ、その先にある場所への警戒も人一倍強いのだろう。


「カゲです」赤毛の女性が短く名乗った。覇気のある声だった。「あんたが噂の光の子か。思ったより小さいな」


「アルテミアです。よろしくお願いします」


「ルインだ」もう一人、寡黙な印象の青年が頭を下げた。「霊樹級、二人いれば黒の根域でも大抵のことには対応できる。心配しなくていい」


「ありがとうございます」


ターラが最後に、地図を広げて見せた。


「エヴァの森を北東に抜けて、二刻ほどで黒の根域の入り口だ。森の中盤、光獅が出たあたりが最初の目印になる。あんたらが見た場所——」ターラはアルテを見た。「あそこから先は、精霊の密度が急に変わる。覚悟しときな」


アルテは頷いた。覚悟は、もう三日前から決めていた。


◆ ◆ ◆

森は、いつもと違う顔をしていた。


アルテが慣れ親しんだエヴァの森の外縁部は、木漏れ日が優しく差し込み、葉陰妖精たちが気まぐれに飛び交う場所だった。けれど北東へ進むにつれ、木々は次第に密になり、光は薄れ、空気そのものが重みを帯びていく。


「精霊の気配が、濃い」エランが小さく呟いた。「肌が粟立つような感覚がある」


「あなたにも分かるの?」


「分かるというより——感じる、が近い。精霊の才能がなくても、これだけ密度が上がれば誰でも分かるんだろう」


アルテには、その「濃さ」がもっと鮮明に伝わってきた。普段は会話のように対話できる光精霊たちが、今は言葉ではなく、ただ純粋な感情の波として寄り添ってくる。不安でも警戒でもない。むしろ——懐かしさに似た何か。


——ここは知っている場所だ、と精霊たちが伝えてくる。


「知っている、って」アルテは小さく声に出した。「あなたたちが?」


答えは返ってこなかった。ただ、進む先を示すように、光の粒がひとつ、ふたつと宙を漂い始めた。


「アルテ?」


「ごめん、何でもない。——少し、導かれてる気がするだけ」


カトが足を止め、地面に膝をついて何かを確かめた。


「ここから先、獣道が変わる」彼は短く言った。「光獅が出た場所だ」


全員が足を止めた。木々の合間、小さな空き地のような場所に、踏み荒らされた形跡があった。三度目の出現——あの夜、白金の鬣を持つ獅子がここに立ち、アルテをまっすぐに見つめていたのだ。


「大きな選択をする瞬間に現れる、んだったか」カゲが地面を見ながら言った。「縁起がいいんだか悪いんだか、わかんないね」


「悪いことだとは思いません」アルテは答えた。「あの子は、いつも——何かを教えてくれている気がするので」


その場所を過ぎると、森の様相は完全に変わった。木々は黒に近い深緑へと色を変え、地面からは仄かな燐光が立ち上り始める。空気は冷たく、けれど不思議と恐ろしさは感じなかった。むしろ——静謐。祈りの場にいるときの感覚に近かった。


「これが、黒の根域の縁か」ルインが低く言った。「噂以上だな」


「精霊密度、measured したことあるのか」カゲが尋ねる。


「ない。誰も深くまで入って戻ってきた者がいないからな」


その言葉に、一瞬だけ空気が張り詰めた。アルテはそれを破るように、一歩前へ出た。


「大丈夫です」彼女は静かに言った。「精霊たちは——怖がっていない。少なくとも、入り口のところは」


「ソルテの言った通りだな」エランが呟いた。「丸い、とがってない」


「ええ」


黒の根域の入り口——巨大な岩盤が裂けたような、自然の亀裂が地中へと続いていた。そこから漏れる光は、燐光というより、もっと根源的な何か——光の精霊そのものが発するような、淡く脈打つ輝きだった。


アルテはその光を見つめながら、懐の歴代聖女の記録に思いを馳せた。「光の源が流れを忘れた状態」——あの断片的な記述が、目の前の光景と重なっていく。


「入りましょう」アルテは振り返らずに言った。「ここまで来たら、もう」


「ああ」カトが頷いた。「日が落ちる前に、行けるところまで行く」


五人は、亀裂の中へと足を踏み入れた。


地中へ続く道は、思いのほか広く、自然の階段のように緩やかに下っていた。壁面には光る苔のようなものが筋を描き、まるで誰かが意図的に灯りを灯したかのようだった。アルテの周りには、いつの間にか光芒妖精たちが集まり、小さな星屑のように浮遊していた。


「綺麗な場所だな」エランが意外そうに言った。「もっと、おどろおどろしい場所を想像していた」


「わたしも」アルテは小さく笑った。「でも——なんだか、悲しい場所のような気もします」


「悲しい?」


「ええ。綺麗なのに、寂しい。誰も来ない場所が、ずっと一人でいたような——そんな感じが」


その言葉に、エランは何も返さなかった。けれど、彼の表情がわずかに変わったのを、アルテは見逃さなかった。


◆ ◆ ◆

日が傾き始めた頃、一行は最初の野営地点に到着した。ターラの地図によれば、ここが「安全に夜を越せる最後の地点」だという。それより先は、誰も記録を残していない。


「今日はここまでだ」ルインが荷を下ろしながら言った。「明日から先は、本当の意味で未知の領域になる」


カゲが手早く野営の準備を始め、カトが周囲の警戒に当たった。エランは黙々と焚き火の薪を集めている。誰もが、それぞれのやり方で緊張をほぐそうとしていた。


アルテは少し離れた岩の上に座り、懐から手記を取り出した。


「光は持つものではなく、与えるもの——そう誰かが書いた記録を、わたしは何度も読んだ。けれど今日、初めてその意味が少しだけ分かった気がする。この根域の奥に眠っているものが何であれ、それはきっと、誰かに与えられることを待っているのだと思う」


書きながら、アルテは焚き火の向こうにいる仲間たちを見た。エラン、カト、カゲ、ルイン。誰もが、それぞれの理由でここにいる。そして街には、セレーヌ、ロアン、ミラ、ソルテ、ベルト——帰りを待つ人たちがいる。


——必ず帰ってきなさい。


セレーヌの言葉が、胸の奥で静かに響いていた。


火が小さく爆ぜる音だけが響く夜だった。アルテは焚き火のそばに小さな光の珠を灯し、その傍らに、ソルテからもらった乾燥花を一輪だけ置いた。どこからか、炉端妖精に似た小さな気配が漂ってくる。神殿の暖炉にいる相棒とは違う、けれど確かに似た温かさを持つ気配だった。


「ここにも、あなたみたいな子がいるのね」アルテは小さく囁いた。「おやすみ。明日も、よろしくお願いします」


気配は答える代わりに、光の珠のまわりをひとめぐりして、静かに消えていった。アルテは空を見上げた。地上よりも近くに見える奇妙な星々——いや、それは星ではなく、地中深くに眠る無数の光の粒なのかもしれなかった。


明日、自分たちはその源へと近づいていく。何が待っているのか分からないまま、アルテは目を閉じた。

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