光獅、ふたたび
それは、夏の終わりの夕暮れだった。
アルテは、いつものように鐘楼に上っていた。準備の日々が続く中で、鐘楼は変わらずアルテの「一人になれる場所」だった。今日も、何かを考えるためではなく、ただ街を見るために上った。
夕陽が運河を橙色に染めていた。市場区から夕食の準備の匂いがした。子どもたちが石橋の上を走っていた。いつもの夕暮れだった。
精霊たちが、傍にいた。鐘楼の窓から差し込む斜めの光の中で、いつもより静かに揺れていた。
アルテは、その光景を見ていた。
そして——ふと、目が止まった。
◆ ◆ ◆
神殿丘の北側、エヴァの森が始まるあたり。
木々の間に、何かがいた。
距離があった。夕暮れの逆光で、輪郭しか見えなかった。大きな、四つ足の生き物。首のあたりに、白金色の何かが揺れていた。
精霊たちが、一斉に動いた。全員がその方向を向いた。
アルテは、息を止めた。
光獅だった。
幼い頃、神殿の森で一度。十二歳の光誕祭の夜、鐘楼から遠くに一度。そして今——三度目だった。
◆ ◆ ◆
光獅は、動かなかった。
木々の間に立って、こちらを見ていた。アルテには、距離があって表情はわからなかった。でも——見ていることは、わかった。
精霊たちが、アルテの周りに集まってきた。守るような動きではなかった。ただ、一緒にいた。光獅とアルテの間に、何かが流れているような気がした。
アルテは、手を上げた。
挨拶のように。フレンツに手を振ったのと、同じような動作で。
光獅は、動かなかった。でも——その白金色の鬣が、風もないのに、少し揺れた。
それだけだった。
次の瞬間、光獅は木々の中に消えていた。気配が、消えた。
◆ ◆ ◆
アルテは、しばらく、その場所を見ていた。
光獅が現れた場所は——エヴァの森の外縁ではなく、もう少し奥だった。エヴァの森と、黒の根域の方向、その中間あたり。
精霊たちが、静かに揺れていた。
アルテは、精霊たちに向かって言った。感覚で、言葉ではなく。
——時が来たの?
精霊たちは、答えなかった。ただ——北の方向に、少し揺れた。第三十五話の夜、異変の時と同じ方向だったが、あの夜のような緊張はなかった。穏やかな、示すような動きだった。
アルテは、理解した。
光獅は、道を示したのだ、と。
◆ ◆ ◆
鐘楼を下りて、アルテはまずセレーヌ大神官のところへ行った。
「光獅を見ました」とアルテは言った。「三度目です」
セレーヌ大神官は、少し目を閉じた。それから、開いた。
「どこで」
「鐘楼から。エヴァの森と、黒の根域の方向の、中間あたり」
「精霊たちは?」
「北を示しました。でも、あの夜とは違う。穏やかな感じで」
セレーヌ大神官は、しばらく何も言わなかった。窓の外を見ていた。夕暮れの聖環水路が見えた。
「光獅が現れた場所に、行くということですか」とセレーヌ大神官は言った。
「行きたい」とアルテは言った。「精霊たちも、示しています。時が来た気がします」
◆ ◆ ◆
「いつ行きたいですか」とセレーヌ大神官は聞いた。
「明後日」とアルテは言った。「明日は、準備をします。エランとカトさんに伝えて、ルートを確認して。Sランクの二人にも連絡が必要で」
「カトに連絡は、もうロアン神官が取ってあります」とセレーヌ大神官は言った。「光獅が現れた時のために、準備していました」
アルテは、少し驚いた。
「またですか。みんな、先に動いている」
「あなたを待っていただけです」とセレーヌ大神官は言った。「あなたが『行く』と言う時のために、準備をしていた。それだけです」
アルテは、その言葉を受け取った。
この三年間——いや、もっと前から、この人はアルテが動く時のために、準備をしてくれていた。「待つ」ことを知っている人だった。
◆ ◆ ◆
エランに伝えると、エランは頷いた。
「明後日ですね」とエランは言った。「明日の間に、黒の根域の最新情報をまとめます。Sランクの二人から、最近の調査報告を受け取っておきます」
「ありがとう」
「お礼を言われることでは」とエランは言った。それから、少し間を置いて、「……気をつけてください」と言った。「あなたが戻ってきて初めて、わたしの仕事は完成するので」
アルテは、少し笑った。
「エランらしい言い方だね」
「わたしはこういう言い方しかできないので」
「それでいい」とアルテは言った。「エランのままでいてくれて、ありがとう」
エランは、少し照れた顔で、前を向いた。
◆ ◆ ◆
ミラに伝えるのは、最後にした。
「明後日、行く」とアルテは言った。
ミラは、静かに頷いた。
「光獅を見たんだね」
「うん。どこで聞いた?」
「ソルテが教えてくれた。精霊たちの気配が変わったって」
アルテは、少し笑った。ソルテは、いつも一番先に感じていた。
「怖い?」とミラが聞いた。
「怖い」とアルテは正直に言った。「でも——行かないとも思えない。精霊たちが示している。光獅が来た。記録に残らない経験を、わたしがすることになるかもしれない。でも——」
「でも?」
「帰ってくる場所がある、ってわかってるから」
ミラは、少し目を潤ませた。
「わたし、ここにいるから」とミラは言った。「帰ってきたら、話を聞く。全部」
「全部、話す」とアルテは言った。
◆ ◆ ◆
その夜、アルテはベルトを訪ねた。
ベルトは、神殿の保護区で暮らしていた。最近は、薬草園の世話と、神殿の小さな仕事を手伝っていた。
「明後日、黒の根域に行きます」とアルテは言った。「報告しておきたかった」
ベルトは、しばらくアルテを見た。
「危ないのか」
「わかりません。でも、行かないといけない気がします」
ベルトは、少し考えた。それから言った。
「村が失われた夜、わたしは迷った。もっと早く決断していれば、失わなかったものがあったかもしれない」とベルトは言った。「あなたは、迷っていない。それは——いいことだと思う」
「迷っていないわけじゃないです」とアルテは言った。「ただ、行くべき時だとわかるから、行きます」
「それが、決断だ」とベルトは言った。「帰ってこい」
「はい」
◆ ◆ ◆
夜、アルテは部屋に戻って、紙に書いた。
光獅を見た。三度目。鐘楼から。精霊たちが北を示した。穏やかに。明後日、黒の根域に行く。エラン、カトさん、Sランクの二人と一緒に。セレーヌ様は、もう準備していた。エランも。みんなが、待っていてくれた。ミラが「帰ってきたら全部聞く」と言った。ベルトさんが「帰ってこい」と言った。帰る場所がたくさんある。だから、行ける。
書き終えて、紙の束を見た。
第一話の夜から、ずっと書き続けてきた記録。この束が、三年分の時間だった。
暖炉の炎が揺れていた。
「明後日、行ってくるね」とアルテは炎に言った。「帰ってくるから、待っていてほしい」
炎が、ふわりと揺れた。いつもより、少し大きく。
精霊たちが、静かに光った。
「おやすみ」と言った。
水都の夜が深くなった。街は静かだった。明後日のことを知っているのは、ほんの数人だけだった。運河は、いつもと同じように流れていた。
光獅が現れた北の方向を、アルテは窓から一度見た。
それから、目を閉じた。




