準備
異変の夜から、十日が経った。
黒の根域は、その後静かだった。ギルドの報告によれば、奥からの光は消えており、Sランクの冒険者が再度調査に入っても、異常は見られなかった。でも——何かがあったことは確かで、精霊たちは今も、ときおり北の方向を向く癖が残っていた。
「嵐の前の静けさかもしれません」とエランは言った。「あるいは、本当に収まったのかもしれません。どちらかはまだわかりません」
「どちらにせよ」とアルテは言った。「準備はしておく」
「そうです」とエランは頷いた。
準備は、三つの方向で始まった。
◆ ◆ ◆
一つ目は、カトとのエヴァの森での訓練だった。
カトは、アルテに黒の根域について教えてくれた。外縁から始まり、中層、深層、そして最深部——それぞれどんな環境で、どんな危険があるか。精霊使いとして気をつけることは何か。
「黒の根域は」とカトは言った。「他の迷宮と違う。入れば入るほど、精霊の密度が変わる。外縁は薄く、深部に行くほど濃くなる。精霊使いには、それが有利に働くこともあるが——過剰な密度は、精霊使いにも負荷になる」
「精霊が濃い場所は、体に影響が出るんですか」
「普通の人間には関係ない。でも、精霊と深く繋がっている人間には——精霊の感覚が鋭敏になりすぎて、疲弊することがある。Sランクの冒険者の中でも、精霊感知の能力がある者は、深部では頭痛が出ると言っていた」
アルテは、それを聞いて、少し考えた。祝福祭の「水廻り」で疲れるのと、似た仕組みかもしれなかった。
◆ ◆ ◆
「ソルテは、連れて行かない方がいい」とアルテは言った。
「なぜ」とカトは聞いた。
「ソルテは、精霊の気配を感じる能力がある。黒の根域の深部では、過剰な密度で辛くなると思う」
カトは、少し頷いた。
「冷静な判断です」とカトは言った。「自分だけじゃなく、連れていく人間のことを考えられる。それは、迷宮での生存に直結します」
「ミラも、連れて行けない」とアルテは言った。「精霊の力がないミラには、あの環境は危ない」
「では、誰を連れていくか、考えておいてください」とカトは言った。「わたしは行きます。Sランクの二人も、たぶん来る。あとは——あなたが決めることです」
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二つ目の準備は、精霊たちとの対話だった。
アルテは毎晩、いつもより長い時間を精霊たちとの対話に使った。言葉ではなく、感覚で。黒の根域の方向について、何かを知っているかどうか。行くことを、精霊たちはどう思っているか。
精霊たちは、明確な答えをくれなかった。
ただ——アルテが黒の根域について考える時、精霊たちは集まってきた。反対しているわけでも、促しているわけでもなかった。ただ、一緒にいた。
「わかった」とアルテは言った。ある夜、精霊たちに。「一緒に行くよ。時が来たら」
精霊たちが、少し光った。それが答えだと思った。
◆ ◆ ◆
三つ目の準備は、ロアン神官との記録の調査だった。
図書庫で、黒の根域に関する古い記録を探した。ロアン神官は、何冊もの書物を引っ張り出してきた。アルテは、それを一緒に読んだ。
ほとんどは断片的な記述だった。黒の根域に入った冒険者の証言、精霊の記録、神官の観察日誌。でも、その断片を繋ぐと、少しずつ形が見えてきた。
「黒の根域の最深部には」とロアン神官は言った。「何百年も前から、光の精霊の聖域があったとされています。ただ、その聖域は——長い年月の中で、何かによって『歪み』が生じた。その歪みが、今の異変の原因かもしれません」
「歪みとは、どういうものですか」
「精霊の聖域が乱れること、と記録されています。精霊語では——」ロアン神官は、少し難しい言葉を探した。「『光の源が、流れを忘れた状態』と表現されています」
「光の源が、流れを忘れた」とアルテは繰り返した。
「光は、流れることで意味を持つ。聖域の光が、外に流れなくなった時、歪みが生じる——という解釈が、一つあります」
◆ ◆ ◆
「流れを思い出させる、ということですか」とアルテは言った。「わたしが行くとすれば」
「そうかもしれません」とロアン神官は言った。「ただし、これは古い記録の解釈に過ぎません。確かなことは、何もわかっていない」
「わかっていないけど、行く可能性はある」
「そうです」
アルテは、記録の文字を見た。何百年も前の、誰かが書いた言葉。光の精霊使いが聖域に近づいた時、歪みが修復された——という一行。
「先生」とアルテは言った。
「はい」
「歴代の聖女の記録に、こういう経験をした人はいましたか」
ロアン神官は、少し間を置いた。
「記録の限りでは——いません」と言った。「あなたが、最初かもしれません」
◆ ◆ ◆
その夜、エランが部屋に来た。
「一つ、提案があります」とエランは言った。
「なに」
「わたしも、行きます」
アルテは、少し驚いた。
「エランは、精霊使いじゃない。迷宮の経験も、冒険者ほどはない」
「わかっています」とエランは言った。「でも——あなたが動いた後を、考える人間が必要です。迷宮の中でも、外でも。カトさんとSランクの冒険者は、道を切り拓く力があります。わたしには、それはない。でも——状況を整理して、判断を補助することならできます」
アルテは、しばらく考えた。
「危険だよ」
「わかっています」とエランは言った。「でも、あなた一人より——二人の方が、いい判断ができます。それは、事実だと思います」
◆ ◆ ◆
「セレーヌ様に聞く」とアルテは言った。
「もう聞きました」とエランは言った。「行くことを、許可してもらいました」
「……いつ聞いたの」
「三日前に」
アルテは、エランを見た。三日前といえば、異変の夜の直後だった。あの夜が明けてすぐに、エランはセレーヌ大神官のところに行って、許可を取っていたのか。
「エランが、先に動いてるじゃない」
「わたしが動いたのではありません」とエランは言った。「考えた結果、行動しました。それは——あなたが動く前に、わたしが考えた、ということです」
アルテは、少し笑った。
「ありがとう」と言った。
エランは、少し照れた顔で、「お礼を言われることでは」と言った。
◆ ◆ ◆
ミラに、話した。
黒の根域に行くかもしれないこと、エランも一緒に行くこと、カトとSランクの冒険者も来ること。
ミラは、静かに聞いていた。
「わたしは、行けないね」とミラは言った。
「うん」とアルテは言った。「精霊の力がない場所には——ミラを連れて行けない」
「怒ってないよ」とミラは言った。「それが正しいと思うから。ただ——」
「ただ?」
「行ってきてね」とミラは言った。「ちゃんと、帰ってきてね」
アルテは、頷いた。
「帰ってくる」と言った。「ここに。必ず」
ミラは、少し目を潤ませた。でも、泣かなかった。
「信じてる」とミラは言った。
◆ ◆ ◆
夜、アルテは紙に書いた。
準備を進めている。カトさんから迷宮のことを教わった。精霊たちと対話した。ロアン先生と記録を調べた。エランが「一緒に行く」と言った。三日前にセレーヌ様に許可を取っていた。エランらしい。ミラに話した。「帰ってきてね」と言われた。「必ず帰る」と言った。本当のことだ。精霊たちが一緒にいる。みんながいる。だから、行ける。怖いけど、行ける。
暖炉の炎が揺れていた。
「おやすみ」と言った。
炎がふわりと揺れた。精霊たちが、静かに光った。今夜は、いつもより近くにいる気がした。
水都の夜が深くなった。黒の根域は、今夜も静かだった。でも——いつか、行く。その時のために、今夜も眠る。




