黒の根域、異変
その夜、ソルテが走ってきた。
消灯後だった。アルテはちょうど、暖炉の前で紙に何かを書こうとしていた。扉を叩く音が、いつもより速かった。
「どうしたの」と扉を開けると、ソルテは息を切らしていた。いつもは静かなソルテが、走ってきたことが、それだけで異常だとわかった。
「精霊たちが」とソルテは言った。「全部、同じ方向を向いています」
「同じ方向?」
「北。黒の根域の方向。それだけじゃなくて——」ソルテは少し息を整えた。「気配が、とがっています。今まで感じたことのないくらい、とがっていて——怖い感じではなく、緊張している感じです」
アルテは、部屋の精霊たちを見た。確かに、全員が同じ方向を向いていた。いつもはばらばらに動いている精霊たちが、一点を見ていた。
◆ ◆ ◆
アルテは、上着を羽織った。
「セレーヌ様のところに行こう」
「今夜?」
「今夜」
二人で廊下を歩いた。夜の神殿は静かだった。でも——よく感じると、空気が違った。普段の夜の静けさではなかった。何かが、息を詰めているような静けさだった。
大神官室の扉を叩くと、すぐに返事があった。
「入りなさい」
セレーヌ大神官は、まだ起きていた。机に書き物をしていた。アルテたちを見て、顔色は変えなかった。
「精霊が、北を向いているのですね」とセレーヌ大神官は言った。聞く前に。
「知っていましたか」
「さっき、ロアン神官から連絡が来ました。ギルドのターラからも」
◆ ◆ ◆
「黒の根域で、今夜、大規模な変化があったようです」とセレーヌ大神官は言った。「Sランクの冒険者二人が調査中に、奥から何かが——出てきた」
「何かが、というのは」
「まだ、報告の途中です。二人は無事ですが、奥から出てきたものの正体が、わかっていない」
アルテは、少し息を止めた。
「精霊たちは」とアルテは言った。「怖がっているんじゃなくて、緊張している感じがします。何かに、向き合おうとしているような」
ソルテが、静かに頷いた。「わたしも、そう感じます」
セレーヌ大神官は、二人を見た。それから、窓の外——北の方向を見た。
「今夜は、待ちましょう」とセレーヌ大神官は言った。「何が起きているか、もう少し情報が集まるまで」
◆ ◆ ◆
大神官室に、ロアン神官が来た。
「ターラから、続報が来ました」とロアン神官は言った。「Sランクの冒険者——カゲとルインの二人が言うには、黒の根域の最深部から、光が漏れていたそうです」
「光?」とアルテは聞いた。
「暗い迷宮の奥から、白い光が。二人は近づこうとしましたが、精霊たちが止めたそうです。精霊が人間を止めることは、珍しいことではないですが——今夜は、強く止めたとのことです」
アルテは、精霊たちを見た。精霊たちは、まだ北を向いていた。
「光が漏れているのは——なぜですか」とアルテは聞いた。「暗い迷宮の奥から、光が出るというのは」
ロアン神官は、少し考えた。
「記録に、一つだけ、似た事例があります」とロアン神官は言った。「古い記録で——精霊の聖域が、長い年月の歪みを受けた時、内部から光を発することがあると。それは、聖域が——何かを求めているサインとされています」
「何かを求めている?」
「記録には、その先が書かれていません。ただ——光を発した聖域に、光の精霊使いが近づいた時、歪みが修復されたという、断片的な記述があります」
◆ ◆ ◆
部屋が、静かになった。
誰もが、同じことを考えていた。でも、誰も口にしなかった。
アルテが、先に言った。
「わたしが、行くべきですか」
セレーヌ大神官が、アルテを見た。ロアン神官も、アルテを見た。ソルテは、精霊の方向を見たまま、静かにしていた。
「記録は、断片的です」とロアン神官は言った。「確実ではありません」
「でも——可能性はある」とアルテは言った。
「ある」
「精霊たちは、止めていないですね。Sランクの冒険者は止めたのに、精霊たちはわたしには何も言っていない」
アルテは、精霊たちを見た。精霊たちは、北を向いたまま、揺れていた。止めるでも、促すでもなく、ただ——向いていた。
「今夜じゃない」とセレーヌ大神官は言った。静かに、でもはっきりと。「今夜は、待つ。あなたは今夜、ここにいなさい」
◆ ◆ ◆
アルテは、頷いた。
「わかりました」と言った。「待ちます」
セレーヌ大神官は、少し息を吐いた。安心したような。
「今夜は、ここに四人でいましょう」とセレーヌ大神官は言った。「朝になれば、もう少しわかります」
ロアン神官が、暖炉に薪を足した。部屋が少し明るくなった。
四人で、暖炉を囲んだ。大神官と上級神官と二人の見習い——いや、もうアルテは見習いではなかった。でも、今夜は、そんな区別はどうでもよかった。
ソルテが、静かに言った。
「精霊たちの気配が、少し変わりました」
「変わった?」とアルテは聞いた。
「とがっていたのが——少し丸くなってきました。まだ北を向いていますが、緊張が、少し緩んでいます」
アルテは、精霊たちを見た。確かに、少し変わっていた。
「何かが、落ち着いてきているのかもしれません」とアルテは言った。
「あるいは」とロアン神官は言った。「今夜は、これ以上は来ない、ということを——精霊たちが知っているのかもしれません」
◆ ◆ ◆
夜が明けるまで、四人は大神官室にいた。
途中、ミラが来た。廊下が騒がしいのに気づいて、起きてきたらしかった。セレーヌ大神官が、状況を説明すると、ミラはアルテの隣に座った。何も言わなかった。ただ、隣にいた。
エランも来た。こちらは、ギルドからの続報を調べてきた、と言った。「今夜の異変は、局所的で、街には影響が出ていない」という情報を持ってきた。
六人になった。
夜明け前、精霊たちは北を向くのをやめた。いつもの、ばらばらの動きに戻っていた。
ソルテが「気配が丸くなりました」と言った。
アルテは、深く息を吐いた。
◆ ◆ ◆
夜明けの光が、窓から差し込んできた。
セレーヌ大神官が、全員を見た。
「今夜のことを、整理しましょう」と言った。「黒の根域の深部から光が漏れた。精霊たちが反応した。Sランクの冒険者が阻まれた。光の精霊使いが近づくと、歪みが修復された記録がある」
一つひとつが、繋がっていた。
「近いうちに」とセレーヌ大神官は言った。「アルテが、黒の根域に行く必要が出てくるかもしれません。ただ——今日ではない。準備が必要です」
「準備というのは」とアルテは聞いた。
「精霊たちと、もっと深く話すこと。カトに、迷宮の外縁から奥への知識を教えてもらうこと。そして——フレンツ陛下に、伝えること」
「王に伝える必要がありますか」
「この街の安全に関わることです」セレーヌ大神官は言った。「王は、知る権利があります」
アルテは、頷いた。
◆ ◆ ◆
朝の礼拝の後、六人はそれぞれの場所に戻った。
アルテは、自分の部屋に戻って、窓から北の方向を見た。黒の根域は、そこから見えなかった。でも——あそこに何かがある、ということは、今夜わかった。
精霊たちが、傍にいた。いつもの気配に戻っていた。
「昨夜は、怖かった?」とアルテは精霊たちに聞いた。
精霊たちは、答えなかった。ただ、少し近づいてきた。
「わたしも、少し怖かった」とアルテは言った。「でも——行くかもしれない。その時は、一緒に行こう。頼むんじゃなくて、一緒に」
精霊たちが、静かに揺れた。
アルテは、紙を出した。今日のことを、書き留めておきたかった。
昨夜、黒の根域で異変があった。精霊たちが全員、北を向いた。深部から光が漏れていたらしい。光の精霊使いが近づくと歪みが修復される、という記録がある。セレーヌ様が「準備が必要」と言った。今夜じゃない、まだ待つ。精霊たちも、夜明けには落ち着いた。ミラが隣に来て、何も言わずにいてくれた。エランが情報を調べてきてくれた。ソルテが精霊の変化を教えてくれた。みんなが、いた。それが、今夜一番、力になった。
書き終えた。
暖炉の炎が、朝の光の中で小さく揺れていた。
「おやすみ」と言った。朝だったが、今日は眠るから。
炎がふわりと揺れた。精霊たちが、静かに光った。
水都の朝が、静かに始まった。昨夜のことを知らない市民たちが、運河沿いを歩いていた。花売りが店を開いていた。魚市場から声が聞こえた。
いつもの朝だった。
アルテは、目を閉じた。




