行かない、ここにいる
夏が終わり、秋が来た。
収穫祭の準備が始まる頃、ミラが少し元気をなくしていることに、アルテは気づいた。
最初は、疲れているのかと思った。ミラはいつも明るいが、疲れると少し静かになる。でも三日経っても、五日経っても、いつものミラには戻らなかった。食事の時、笑っていても、どこか遠い目をしていた。
アルテは、ある夜、ミラの部屋を訪ねた。
「ちょっと、いい?」
ミラは、驚いた顔をした。アルテが夜にミラの部屋を訪ねるのは、珍しかった。
「どうしたの」
「こっちが聞きたい」とアルテは言って、中に入った。
◆ ◆ ◆
ミラの部屋は、アルテが引っ越す前にいた見習い棟の部屋だった。今はミラひとりで使っている。ろうそくの灯りで、机の上に手紙が広げられていた。
アルテは、その手紙を見た。ミラは、隠さなかった。
「家から?」とアルテは聞いた。
「うん」とミラは言った。
ミラの家は、商人の家だった。アルテが知っている限り、ミラが家の話をすることは、あまりなかった。神殿に来てから、ずっとここが生活の中心だった。
「何か、あった?」
ミラは、少し間を置いた。
「お父さんが、神殿の務めが終わったら——商売の手伝いをしてほしいって、書いてきた」
◆ ◆ ◆
アルテは、少し止まった。
「神殿の務めが終わる、って——いつのこと?」
「成人したら、かな」とミラは言った。「神殿の見習いは、成人前の子どもがするものだから。十五歳になったら、続けるかどうか、自分で決める。わたしは——正直、続けたいと思ってた。でも」
ミラは、手紙を折り畳んだ。
「家の方が、戦争で少し困ってるみたいで。北の交易路が使えなくなってて、商売が苦しいって」
「それで、手伝ってほしいと」
「うん」
アルテは、ミラの顔を見た。ミラは、手紙を机に置いて、窓の外を見ていた。
「ミラは、どうしたいの」
「わからない」とミラは言った。「ここにいたい。でも、家が困ってるなら——」
◆ ◆ ◆
アルテは、少し考えてから言った。
「ミラが決めることだよ」
「わかってる」
「でも——わたしは、ミラにいてほしい」
ミラは、アルテを見た。
「それは」とミラは言った。「わたしのためじゃなくて、アルテのためじゃないの」
「そうかもしれない」とアルテは素直に言った。「でも、本当のことだから言った」
ミラは、少し笑った。でも、目が笑っていなかった。
「アルテが、そう言ってくれるのは嬉しい。でも——わたしが家を選んだら、アルテはどうする?」
「寂しい」とアルテは言った。「でも、ミラの選択を、邪魔しない」
◆ ◆ ◆
二人は、しばらく黙っていた。
ろうそくの炎が、静かに揺れていた。
「ねえアルテ」とミラが言った。「アルテは——怖くないの? いろんな国の人が来るようになって、外の世界が近づいてきて」
「怖い」とアルテは言った。「でも、前より怖さの形が変わった」
「どう変わったの」
「前は——何が来るかわからないことが怖かった。今は——来るものは来る、という感じがある。でも、わたしはここを動かない、という気持ちも、同じくらいある」
ミラは、少し首を傾けた。
「動かない、って決めてるの?」
「決めてる」とアルテは言った。「この街にいることが、わたしのできることだから。どこかに行くより、ここで光を使う方が——わたしには、意味がある気がする」
◆ ◆ ◆
ミラは、少し考えていた。
「アルテは、ずっとここにいるんだね」
「うん」
「一人でも?」
アルテは、少し止まった。
「一人でも——いる」とアルテは言った。「でも、できれば一人じゃない方がいい」
「それは——」ミラは、少し目を潤ませた。「わたしにいてほしい、ってこと?」
「そう」とアルテは言った。「でも、ミラが決めること。わたしが決めることじゃない」
ミラは、しばらく、アルテを見ていた。それから、少し息を吸った。
「わたしね」とミラは言った。「アルテが怖いとか不安とか言うの、ほとんど聞いたことなかった。今日、初めてちゃんと聞いた気がする」
「怖いよ、ちゃんと」とアルテは言った。「ただ、言うのが後になることが多いから」
「後にしないで、言っていいよ」とミラは言った。「わたし、ちゃんと聞くから」
◆ ◆ ◆
それから少し、二人は他愛のない話をした。
収穫祭のこと、エランが最近また剣の練習を始めたこと、ソルテが薬草園に新しい妖精を見つけたこと。大きな話ではなかった。でも、そういう話をしている間に、ミラの顔が、少しずつ、いつものミラに近づいていった。
「また、手紙書く」とミラは言った。「お父さんに。もう少し、ここにいたいって」
「うん」とアルテは言った。
「もう少し、って言ったら、また来るかもしれないけど」
「その時は、また考えよう。一緒に」
ミラは、今度は目も笑った。
「一緒に考えてくれるの?」
「当たり前じゃない」とアルテは言った。「ミラの問題は、わたしの問題でもある。半分くらいは」
「半分?」
「半分は、ミラが決めること。でも残りの半分は——一緒に考える」
ミラは、少し笑って、「ありがとう」と言った。
◆ ◆ ◆
アルテが部屋を出る時、ミラが声をかけた。
「アルテ」
「うん」
「前に、わたしが『アルテが遠くに行く気がする』って言ったこと、覚えてる?」
「覚えてる」
「今日、ちょっとわかった気がした」とミラは言った。「遠くに行くのは、アルテじゃなくて——わたしの方だったかもしれない」
アルテは、その言葉を受け取った。
「どこにも行かないで」とアルテは言った。
「行くかどうかは、まだわからない」とミラは言った。正直に。「でも——できれば、行きたくない」
「うん」とアルテは言った。「それだけで十分」
扉を閉めた。廊下に出ると、夜の静けさが戻ってきた。見習い棟の廊下は、消灯後で暗かった。
アルテは、しばらくその廊下に立っていた。
◆ ◆ ◆
自分の部屋に戻って、暖炉の前に座った。
炎が、静かに揺れていた。精霊たちが、今夜は少し、そっと寄り添うような気配だった。
アルテは、紙を出した。
ミラと、長い話をした。ミラは家から呼ばれているかもしれない。ミラが決めること、と言った。でも、いてほしいとも言った。本当のことだから。ミラが「遠くに行くのはわたしの方だったかもしれない」と言った。その言葉が、今夜は少し胸に重い。でも、ミラが「できれば行きたくない」と言ってくれた。それが、今夜の救いだった。わたしは、ここにいる。どこにも行かない。ミラも、できればここにいてほしい。それだけ。
書き終えて、炎を見た。
「おやすみ」と言った。
今夜は、いつもより少し、丁寧に言った。精霊たちに、炉端妖精に、ミラに——少し向けて。
炎がふわりと揺れた。
水都の夜が深くなった。見習い棟の方向に、もう灯りはなかった。ミラは眠れているだろうか。少し、心配しながら、アルテは目を閉じた。




