表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/34

行かない、ここにいる

夏が終わり、秋が来た。


収穫祭の準備が始まる頃、ミラが少し元気をなくしていることに、アルテは気づいた。


最初は、疲れているのかと思った。ミラはいつも明るいが、疲れると少し静かになる。でも三日経っても、五日経っても、いつものミラには戻らなかった。食事の時、笑っていても、どこか遠い目をしていた。


アルテは、ある夜、ミラの部屋を訪ねた。


「ちょっと、いい?」


ミラは、驚いた顔をした。アルテが夜にミラの部屋を訪ねるのは、珍しかった。


「どうしたの」


「こっちが聞きたい」とアルテは言って、中に入った。


◆ ◆ ◆

ミラの部屋は、アルテが引っ越す前にいた見習い棟の部屋だった。今はミラひとりで使っている。ろうそくの灯りで、机の上に手紙が広げられていた。


アルテは、その手紙を見た。ミラは、隠さなかった。


「家から?」とアルテは聞いた。


「うん」とミラは言った。


ミラの家は、商人の家だった。アルテが知っている限り、ミラが家の話をすることは、あまりなかった。神殿に来てから、ずっとここが生活の中心だった。


「何か、あった?」


ミラは、少し間を置いた。


「お父さんが、神殿の務めが終わったら——商売の手伝いをしてほしいって、書いてきた」


◆ ◆ ◆

アルテは、少し止まった。


「神殿の務めが終わる、って——いつのこと?」


「成人したら、かな」とミラは言った。「神殿の見習いは、成人前の子どもがするものだから。十五歳になったら、続けるかどうか、自分で決める。わたしは——正直、続けたいと思ってた。でも」


ミラは、手紙を折り畳んだ。


「家の方が、戦争で少し困ってるみたいで。北の交易路が使えなくなってて、商売が苦しいって」


「それで、手伝ってほしいと」


「うん」


アルテは、ミラの顔を見た。ミラは、手紙を机に置いて、窓の外を見ていた。


「ミラは、どうしたいの」


「わからない」とミラは言った。「ここにいたい。でも、家が困ってるなら——」


◆ ◆ ◆

アルテは、少し考えてから言った。


「ミラが決めることだよ」


「わかってる」


「でも——わたしは、ミラにいてほしい」


ミラは、アルテを見た。


「それは」とミラは言った。「わたしのためじゃなくて、アルテのためじゃないの」


「そうかもしれない」とアルテは素直に言った。「でも、本当のことだから言った」


ミラは、少し笑った。でも、目が笑っていなかった。


「アルテが、そう言ってくれるのは嬉しい。でも——わたしが家を選んだら、アルテはどうする?」


「寂しい」とアルテは言った。「でも、ミラの選択を、邪魔しない」


◆ ◆ ◆

二人は、しばらく黙っていた。


ろうそくの炎が、静かに揺れていた。


「ねえアルテ」とミラが言った。「アルテは——怖くないの? いろんな国の人が来るようになって、外の世界が近づいてきて」


「怖い」とアルテは言った。「でも、前より怖さの形が変わった」


「どう変わったの」


「前は——何が来るかわからないことが怖かった。今は——来るものは来る、という感じがある。でも、わたしはここを動かない、という気持ちも、同じくらいある」


ミラは、少し首を傾けた。


「動かない、って決めてるの?」


「決めてる」とアルテは言った。「この街にいることが、わたしのできることだから。どこかに行くより、ここで光を使う方が——わたしには、意味がある気がする」


◆ ◆ ◆

ミラは、少し考えていた。


「アルテは、ずっとここにいるんだね」


「うん」


「一人でも?」


アルテは、少し止まった。


「一人でも——いる」とアルテは言った。「でも、できれば一人じゃない方がいい」


「それは——」ミラは、少し目を潤ませた。「わたしにいてほしい、ってこと?」


「そう」とアルテは言った。「でも、ミラが決めること。わたしが決めることじゃない」


ミラは、しばらく、アルテを見ていた。それから、少し息を吸った。


「わたしね」とミラは言った。「アルテが怖いとか不安とか言うの、ほとんど聞いたことなかった。今日、初めてちゃんと聞いた気がする」


「怖いよ、ちゃんと」とアルテは言った。「ただ、言うのが後になることが多いから」


「後にしないで、言っていいよ」とミラは言った。「わたし、ちゃんと聞くから」


◆ ◆ ◆

それから少し、二人は他愛のない話をした。


収穫祭のこと、エランが最近また剣の練習を始めたこと、ソルテが薬草園に新しい妖精を見つけたこと。大きな話ではなかった。でも、そういう話をしている間に、ミラの顔が、少しずつ、いつものミラに近づいていった。


「また、手紙書く」とミラは言った。「お父さんに。もう少し、ここにいたいって」


「うん」とアルテは言った。


「もう少し、って言ったら、また来るかもしれないけど」


「その時は、また考えよう。一緒に」


ミラは、今度は目も笑った。


「一緒に考えてくれるの?」


「当たり前じゃない」とアルテは言った。「ミラの問題は、わたしの問題でもある。半分くらいは」


「半分?」


「半分は、ミラが決めること。でも残りの半分は——一緒に考える」


ミラは、少し笑って、「ありがとう」と言った。


◆ ◆ ◆

アルテが部屋を出る時、ミラが声をかけた。


「アルテ」


「うん」


「前に、わたしが『アルテが遠くに行く気がする』って言ったこと、覚えてる?」


「覚えてる」


「今日、ちょっとわかった気がした」とミラは言った。「遠くに行くのは、アルテじゃなくて——わたしの方だったかもしれない」


アルテは、その言葉を受け取った。


「どこにも行かないで」とアルテは言った。


「行くかどうかは、まだわからない」とミラは言った。正直に。「でも——できれば、行きたくない」


「うん」とアルテは言った。「それだけで十分」


扉を閉めた。廊下に出ると、夜の静けさが戻ってきた。見習い棟の廊下は、消灯後で暗かった。


アルテは、しばらくその廊下に立っていた。


◆ ◆ ◆

自分の部屋に戻って、暖炉の前に座った。


炎が、静かに揺れていた。精霊たちが、今夜は少し、そっと寄り添うような気配だった。


アルテは、紙を出した。


ミラと、長い話をした。ミラは家から呼ばれているかもしれない。ミラが決めること、と言った。でも、いてほしいとも言った。本当のことだから。ミラが「遠くに行くのはわたしの方だったかもしれない」と言った。その言葉が、今夜は少し胸に重い。でも、ミラが「できれば行きたくない」と言ってくれた。それが、今夜の救いだった。わたしは、ここにいる。どこにも行かない。ミラも、できればここにいてほしい。それだけ。


書き終えて、炎を見た。


「おやすみ」と言った。


今夜は、いつもより少し、丁寧に言った。精霊たちに、炉端妖精に、ミラに——少し向けて。


炎がふわりと揺れた。


水都の夜が深くなった。見習い棟の方向に、もう灯りはなかった。ミラは眠れているだろうか。少し、心配しながら、アルテは目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ