ミラのこと
翌日の朝、アルテはミラを探した。
礼拝の後、食堂で朝食を食べながら、「今日の午後、時間ある?」と聞いた。ミラは少し驚いたような顔をした。アルテが時間を確認してから誘うのは、珍しかったから。
「ある」とミラは言った。「どうしたの」
「話したいことがある」
「なんか、真剣な顔してる」
「真剣な話じゃないかもしれない。でも——話したくて」
ミラは、少し頷いた。「じゃあ午後、鐘楼で」と言った。
◆ ◆ ◆
午後、二人は鐘楼に上った。
第一章から変わらない場所だった。アルテの「一人になれる場所」。でも今日は、一人ではなかった。ミラと並んで、窓の外を見た。
春の午後の光が、運河を照らしていた。聖環水路に舟が一艘、ゆっくりと流れていた。
「昨日」とアルテは言った。「王宮から、王様が来た」
「国王陛下が?」ミラは少し目を丸くした。「神殿に?」
「うん」
「それで、アルテも同席したの?」
「した」とアルテは言った。「それで——わかったことがあって」
ミラは、アルテの横顔を見た。何かを待っていた。
「フレンツさん」とアルテは言った。「王様だった」
◆ ◆ ◆
沈黙が、少し続いた。
ミラは、最初、意味がわからないという顔をした。それから、ゆっくりと理解していく顔になった。
「……フレンツさんって、光誕祭の?」
「うん。三年、ずっと光誕祭に来てくれてた人。茶色の上着の」
「それが——」
「フレンツ・ルミエナント陛下だった」
ミラは、しばらく、何も言わなかった。
窓の外で、舟が橋の下をくぐった。橋の上の花売りが、声を上げていた。いつもの午後の景色だった。
「……びっくりした?」とミラは、静かに聞いた。
「した」とアルテは言った。「昨日は、しばらく言葉が出なかった」
「怒った?」
「怒らなかった」とアルテは言った。「怒る気になれなかった。なんでかはうまく説明できないけど——フレンツさんも、ただのフレンツでいたかったんだと思ったら、怒れなかった」
◆ ◆ ◆
ミラは、少し考えていた。
「わたし」とミラは言った。「ずっと、何かおかしいと思ってた」
「おかしい?」
「フレンツさんのこと。市場に来る普通の人にしては、なんか——落ち着きすぎてた。街の騒ぎに動じない感じ。お忍びの人みたいだなって、ちょっと思ってた」
アルテは、少し驚いた。
「言ってくれればよかったのに」
「言っても、アルテが気にするといけないから」とミラは言った。「確信もなかったし。それに——二人の話、邪魔したくなかった」
アルテは、ミラを見た。
「邪魔、なんかじゃないよ」
「わかってる」とミラは言った。「でも、アルテとフレンツさんの会話って、なんか、特別な感じがした。横から入れる感じじゃなかった」
◆ ◆ ◆
アルテは、少し黙った。
「ミラは」とアルテは言った。「フレンツさんが王様だったこと、どう思う?」
「どう、って?」
「困ることとか、ある?」
ミラは、少し首を傾けた。
「困ること……」ミラは考えた。「わたしは別に、困らない。ただ——アルテが、これからどうなるか、少し心配」
「どうなるって」
「王様と繋がりがある聖女、って——なんか、いろいろ変わるんじゃないかと思って。神殿の外から、見られる目とか」
アルテは、その言葉を、ゆっくりと受け取った。
「……変わるかもしれない」とアルテは言った。「でも、わたしがここにいることは、変わらない。ミラと一緒にいることも」
ミラは、少し、アルテを見た。
「本当に?」
「本当に」
ミラは、少しだけ目を細めた。泣きそうな顔ではなかったが、何か深いところで安心した、という顔だった。
◆ ◆ ◆
しばらく、二人で運河を見ていた。
「ねえアルテ」とミラが言った。
「うん」
「フレンツさんのこと、好きなの?」
アルテは、少し止まった。
「好き、っていうのは」
「好きか嫌いかで言えば、どっち」
アルテは、考えた。嫌いではなかった。それははっきりしていた。王だとわかっても、やはり「フレンツさん」という感覚は変わらなかった。話しやすくて、飾らなくて、聞いてくれる人だった。
「好き」とアルテは言った。「友達みたいな感じ、かな」
「友達」
「年は離れてるけど、なんか——対等な感じがするから」
ミラは、少し笑った。
「王様と対等な感じ、ってすごいね」
「フレンツさんが、そういう人だから」とアルテは言った。「王様でも、ただのフレンツさんでいようとしてる人だから」
◆ ◆ ◆
「わたしも、好きだよ」とミラは言った。
「フレンツさんを?」
「うん。会ったことないけど——アルテが話してくれる話の中の、フレンツさんが好き。アルテをアルテとして扱ってくれる人だから」
アルテは、少し胸があたたかくなった。
「ミラには、来年の光誕祭、正式に来るって言ってたから——見られるかもしれない。今度は王様として来るから、遠くからだけど」
「見たい」とミラは即座に言った。「どんな人か、ちゃんと見たい」
アルテは笑った。
「そう言うと思った」
「当たり前じゃない」ミラも笑った。「アルテの——友達みたいな王様、どんな顔してるか、気になる」
◆ ◆ ◆
鐘楼から下りる前に、ミラが言った。
「アルテ」
「うん」
「フレンツさんが王様でも、アルテがアルテのままでいられてるのは——わかってる。昨日のこと、怒らなかったのも、アルテらしい。だから——遠くに行く気がした、って前に言ったけど」
ミラは、少し言葉を探した。
「どこにも行ってないんだなって、今日、わかった」
アルテは、その言葉を聞いて、少し目の奥が熱くなった。
「行かないよ」とアルテは言った。「どこにも」
ミラが、少し笑った。それから、先に石段を下り始めた。アルテは、その背中を見ながら、少しだけ、目をぬぐった。
精霊たちが、鐘楼の光の中で、静かに揺れていた。
◆ ◆ ◆
夜、アルテは紙に書いた。
ミラに話した。フレンツさんが王様だったこと。ミラは怒らなかった。「お忍びっぽいと思ってた」と言っていた。「アルテをアルテとして扱ってくれる人だから好き」と言ってくれた。「どこにも行ってないんだなって、今日わかった」という言葉が、一番嬉しかった。わたしにとって、ミラは「普通でいられる場所」だ。それは、これからも変わらない。
暖炉の炎が揺れていた。今日は、一日、心が動いた。でも最後は、温かかった。
「おやすみ」と言った。
炎がふわりと揺れた。精霊たちが、静かに光った。
水都の夜が深くなった。運河が、星を映して流れていた。ミラの部屋の方向に、まだ灯りが見えた。もう少しだけ、起きているのかもしれなかった。
アルテは、その灯りを見てから、目を閉じた。




