フレンツさんの秘密
その日、セレーヌ大神官に呼ばれたのは、昼過ぎのことだった。
「今日の午後、王宮から使者が来ます」とセレーヌ大神官は言った。「神殿として、正式に対応する必要があります。あなたにも、同席してほしい」
「王宮から」とアルテは繰り返した。「何の用事ですか」
「国王陛下が、神殿を正式に訪問したいとのことです」
アルテは、少し緊張した。国王が神殿を訪問することは珍しくないが、アルテが正式な場に同席するのは初めてだった。
「わかりました」とアルテは言った。「準備します」
「白衣を着てきてください」とセレーヌ大神官は言った。「正式な場ですから」
◆ ◆ ◆
白衣に着替えて、アルテは大神官室の前廊下で待った。
しばらくして、足音が聞こえてきた。複数の人間の足音だった。廊下の角を曲がって、一行が現れた。
先頭は、騎士服を着た中年の男性。側近か護衛だろう。その後ろに、数人の従者。そして——
アルテは、目を丸くした。
一行の中心に、見覚えのある人物がいた。茶色の上着ではなく、今日は深緑の上衣に金の縁取りという、見たことのない装いだった。でも、顔は——間違いなかった。
フレンツだった。
◆ ◆ ◆
フレンツも、アルテに気づいた。
一瞬、その歩みが止まった。それから、何かを決めたように、また歩き始めた。
「聖女アルテミア」と、側近の男性が言った。「ゲルアラント国王フレンツ・ルミエナント陛下のお成りです」
アルテは、その言葉を、耳の中で何度も繰り返した。
ゲルアラント国王。フレンツ・ルミエナント。
フレンツ、さん。
アルテは、何も言えなかった。頭の中で、二年分の記憶が、一気に並び替えられていた。光誕祭の石段で話した人。大祭の翌日に運河沿いで話した人。「来られるようにします」と言った人。「あなたのところまで噂が届く」と言った人——それが、すべて、王だった。
フレンツは、アルテの前で立ち止まった。
「アルテさん」と言った。いつもと同じ声だった。
◆ ◆ ◆
大神官室で、正式な挨拶が行われた。
セレーヌ大神官が神殿を代表し、フレンツが王として応じた。ロアン神官が記録を取り、アルテは側に立って、何も言わなかった。言葉が出なかった。
正式な用件は短かった。黒の根域の異変について、王宮と神殿が情報を共有すること。外からの訪問者への対応について、今後も連携すること。それだけだった。
用件が終わって、側近たちが廊下に出ると、フレンツがセレーヌ大神官に言った。
「少し、聖女と話せますか」
セレーヌ大神官は、アルテを見た。アルテは、まだ何も言えなかった。それでも、頷いた。
セレーヌ大神官は、席を外した。
◆ ◆ ◆
部屋に、二人だけになった。
フレンツは、少し離れた椅子に座った。アルテは立ったままだった。
「驚かせました」とフレンツは言った。
「……はい」
「謝らないといけません」
「謝る?」
「最初に名乗った時、名前だけ言いました。家名も立場も、言わなかった」フレンツは、静かに言った。「意図的に、隠していました」
アルテは、少し考えた。怒っているかどうか、自分でもよくわからなかった。
「……なんで、隠してたんですか」
「最初に会った時、あなたが普通に話しかけてきてくれたから」とフレンツは言った。「聖女でも、神殿の人間でもなく——ただのアルテとして。それが、嬉しかった。だから、わたしも、ただのフレンツでいたかった」
◆ ◆ ◆
アルテは、その言葉を、少し時間をかけて受け取った。
光誕祭の石段で「ただのアルテです」と言った時、フレンツは「それでいいと思います」と言っていた。あれは——自分自身にも、同じことを言っていたのかもしれなかった。
「ただのフレンツとして」とアルテは言った。「わたしと話したかった?」
「そうです」
「王様として話したら、違ったんですか」
フレンツは、少し考えた。
「違ったと思います」と言った。「あなたは、わたしが王だと知っていたら——もっと丁寧に、もっと遠慮して話してくれたでしょう。それは、あなたの誠実さだと思います。でも——あなたが素性を知らずに話してくれた言葉の方が、わたしには大切でした」
アルテは、しばらく黙っていた。
「それは……」アルテは、ゆっくりと言った。「わたしも、同じです」
「同じ?」
「フレンツさんが王様だと知っていたら、わたしも——もっと遠慮していたと思います。だから、知らなかった時の会話が、正直だった」
◆ ◆ ◆
少しの沈黙があった。
「これから」とアルテは聞いた。「どう話せばいいですか」
「どう、とは」
「陛下、と呼ぶべきですか」
フレンツは、少し考えた。それから言った。
「正式な場では、そうしてください。でも——できれば、それ以外の時は、今まで通りでいてほしい」
「今まで通り」
「フレンツさんで、構いません」フレンツは言った。「あなたが、そう呼んでくれる時は——ただのフレンツでいられる気がします」
アルテは、その言葉を聞いて、少し胸の中のものが解けた気がした。
「わかりました」とアルテは言った。「じゃあ——フレンツさん」
フレンツは、少し笑った。緊張が解けたような笑い方だった。
◆ ◆ ◆
「ひとつ、聞いてもいいですか」とアルテは言った。
「どうぞ」
「フレンツさんが、医療棟の噂を知っていたこと。あれは、王として知っていたんですか」
フレンツは、少し頷いた。
「側近からの報告に入っていました」と言った。「神殿の見習いが、外からの訪問者を助けている、と。名前は知らなかったけれど——それがあなただとわかった時、驚きはありませんでした」
「そういう人だと思っていた?」
「そうです」フレンツは言った。「最初に会った時から」
アルテは、少し照れた。
「わたしは、ただ——知らないふりをしたくなかっただけです」
「それが」とフレンツは言った。「特別なことです。何度言っても、そう思います」
◆ ◆ ◆
フレンツが立ち上がった。
「今日は、黒の根域の件もあって、本来の目的で来ました」と言った。「でも——来年の光誕祭には、また来ます。今度は、正式に」
「正式に?」
「王として、光誕祭に参列する、という形で」フレンツは言った。「これまでは、お忍びで来ていました。来年からは、ちゃんと来ます」
アルテは、少し考えた。
「正式に来たら、また石段で話せますか」
フレンツは、少しだけ笑った。
「難しくなるかもしれません」と言った。「でも——工夫します」
「工夫」
「お忍びが得意なので」
アルテは、思わず笑った。王が「お忍びが得意」と言う、その言い方が、やはりただのフレンツさんだと思った。
◆ ◆ ◆
フレンツが廊下に出て、一行がまとまった。
出口に向かう前に、フレンツが振り返った。
「アルテさん」
「はい」
「炉端妖精への『おやすみ』は、続けていますか」
アルテは、少し驚いた。あの言葉を、まだ覚えていたのか。
「続けています」とアルテは言った。
フレンツは、それを聞いて、静かに笑った。
「よかった」と言った。「それだけで、わたしは——この街が大丈夫だと思えます」
一行が歩き出した。廊下が遠くなった。足音が消えた。
アルテは、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。
◆ ◆ ◆
セレーヌ大神官が、戻ってきた。
アルテの顔を見て、何も言わなかった。ただ、肩に手を置いた。
「知っていましたか」とアルテは聞いた。
「最初から」とセレーヌ大神官は言った。「あなたが話していた『フレンツさん』が王陛下だということは、すぐにわかりました」
「なぜ教えてくれなかったんですか」
「教えたら、あなたは変わってしまっただろうから」セレーヌ大神官は言った。「あの関係の、あの始まり方は——どちらにとっても大切なものだったと思います。だから、黙っていました」
アルテは、少し考えた。
「……ありがとうございます」とアルテは言った。
セレーヌ大神官は、微笑んだ。
◆ ◆ ◆
夜、アルテは暖炉の前に座ったまま、長い間、何も書かなかった。
いろんなことを、頭の中で並べていた。フレンツが王だったこと。でも、会話は本物だったこと。「ただのフレンツでいたかった」という言葉。「この街が大丈夫だと思える」という言葉。
怒る気にはなれなかった。
騙されたとは思わなかった。むしろ——同じだと思った。アルテも、聖女であることを、たまに脱ぎ捨てたくなる。フレンツも、王であることを、時々降ろしたくなる。そういう人間だった。
それが、最初から合っていたのだ。
アルテは、ようやく紙を出した。
フレンツさんは、王様だった。フレンツ・ルミエナント陛下。驚いたけれど、怒る気にはなれなかった。「ただのフレンツでいたかった」と言っていた。わかると思った。わたしも、ただのアルテでいたいから。でも、フレンツさんがフレンツさんで、わたしがわたしで、それが最初から変わっていなかったことは、本当だと思う。来年の光誕祭、正式に来るらしい。でも「工夫する」と言っていた。フレンツさんらしいと思った。
書き終えて、暖炉を見た。
「おやすみ」と言った。
炎がふわりと揺れた。
それだけで、この街が大丈夫だと、誰かが思ってくれている。その言葉の重さを、今夜は少しだけ感じながら、アルテは目を閉じた。
水都の夜が、静かに深くなった。




