エヴァの森、正式に
許可が出たのは、羅針亭を訪れてから十日後のことだった。
セレーヌ大神官とターラの間で話がまとまり、アルテは月に二回、エヴァの森の外縁に入ることを許可された。条件は二つ。必ずロアン神官か、ギルドのDランク以上の冒険者と同行すること。外縁の境界より奥には入らないこと。
アルテは、その条件を、即座に了承した。
「正式な許可、ですよ」とロアン神官は言った。念を押すように。
「わかってます」とアルテは言った。「前とは違います」
「前と違うのは、条件があることです。その条件を守れますか」
「守ります」
ロアン神官は、少し間を置いた。
「……信じます」とだけ言った。
◆◆◆
初めての「正式な」訪問は、晴れた春の朝に行われた。
ロアン神官と、ギルドからの同行者——Cランクの冒険者、カトという名の三十代の男性が一緒だった。カトは無口で、道案内を黙々とこなした。エヴァの森に詳しいベテランだとターラが言っていた。
森の入口は、街の外れ、北の山脈の裾野に近い場所にあった。舗装された道の終わりに、背の高い木々が続いている。特別な門や看板があるわけではなかった。ただ、そこから先は、木が密になって、光の差し方が変わる。
アルテは、その境目に立った。
光精霊たちが、一斉に前に動いた。嬉しそうに見えた。
◆◆◆
森に入ると、音が変わった。
街の音が遠くなり、鳥の声と、葉のざわめきと、足元の草の音だけになった。空気が湿っていて、少し冷たかった。春だというのに、森の中は別の季節のようだった。
カトが先を歩き、ロアン神官が続いた。アルテは、精霊たちに任せながら歩いた。
外縁の道は、よく踏み固められていた。冒険者たちが毎日歩く道だった。でも、少し外れると、すぐに足元が柔らかくなって、道がわかりにくくなる。精霊たちが傍にいると、その「わかりにくさ」が、少し和らぐ気がした。
「静かですね」とアルテは言った。
「今日は」とカトが、短く答えた。「いつもより」
「いつもは違うんですか」
「妖精の悪戯があるから。今日は——お前さんがいるせいか、おとなしい」
ターラが言っていたことと、同じだった。アルテが森にいると、妖精が穏やかになる。
◆◆◆
少し歩いたところで、カトが足を止めた。
「ここが、外縁の境目です」とカトは言った。「この先は、中層に入ります。今日はここまで」
アルテは、その境目を見た。
木が、急に深くなっていた。光の差し方が違う。木の根が複雑に絡み合い、苔が厚く積もっていた。その先に、何かがいる気配がした。妖精か、精霊か、それとも別の何かか。
光精霊たちが、その境目で止まった。前に進もうとしなかった。
アルテは、精霊たちを見た。
——ここまで?
精霊たちは、答えなかった。ただ、境目の手前で揺れていた。
「精霊たちも、ここで止まってる」とアルテは言った。
カトは、少し頷いた。
「そういうこともある」とカトは言った。「精霊が止まる場所は、大抵、人間も止まった方がいい場所だ」
◆◆◆
アルテは、境目の手前に座った。
ロアン神官とカトは、少し離れて立っていた。アルテが一人で精霊と向き合う時間を、自然に作ってくれていた。
アルテは、目を閉じた。
精霊たちの気配を、全部感じようとした。ここにいるのは、いつも一緒にいる光精霊だけではなかった。森の精霊が、違う種類の気配で、周りにいた。水精霊ではなく、土精霊でもなく——もっと古い、名前のない気配。
怖くなかった。
ただ、大きいと思った。自分より、ずっと長い時間、ここにいるものの気配だった。
——こんにちは。
精霊語で、感覚を送ってみた。
しばらく、何もなかった。
それから——何かが、ほんのわずかに、動いた。気配が、少しだけ、近づいた気がした。
◆◆◆
目を開けると、木の葉が一枚、ゆっくりと落ちてきた。
春なのに、落ち葉だった。枯れた葉ではなく、深い緑色の葉が、一枚だけ、アルテの膝に落ちた。
アルテは、その葉を見た。
ロアン神官が、近づいてきた。
「何か、ありましたか」
「よくわかりません」とアルテは言った。「でも——何かが、少し、近づいてきた気がしました」
「森の精霊ですか」
「多分」とアルテは言った。「すごく、大きい気配でした。古い、というか——長い時間がある感じ」
ロアン神官は、少し考えてから言った。
「記録に、森の主精霊のことが書かれています。エヴァの森に、古くから在るとされる精霊。接触した者は、ほとんどいない」
「主精霊」とアルテは繰り返した。
「あなたには、感じられましたか」
アルテは、膝の上の葉を見た。
「……感じた、かもしれません。でも、確かではないです」
◆◆◆
帰り道、三人は森を出た。
街の音が、また戻ってきた。遠くで、市場の声がした。アルテは、その音を聞いて、少しほっとした。森の中は、静かで、大きすぎる気配があって——街の音は、それとは違う、人間の音だった。
「また来ますか」とカトが言った。唐突に、でも自然に。
「来ます」とアルテは言った。「また来たいです」
「次は、もう少し奥まで行けるかもしれない」とカトは言った。「あなたがいると、森が落ち着く。それが続くなら、少しずつ、範囲を広げてもいい」
「ターラさんに聞いてみます」
「あいつには、俺から言う」とカトは言った。「俺が、同行を続けてもいいと思ってるから」
アルテは、少し驚いた。
「いいんですか」
「悪い話じゃない」とカトは言った。「あなたがいると、妖精が静かになる。うちのギルドの新人が、もう少し安全に外縁を歩ける」
◆◆◆
神殿に戻ると、ミラが入口で待っていた。
「どうだった?」とミラが言った。
「よかった」とアルテは言った。「森の中で、何か大きなものの気配を感じた」
「大きなもの?」
「主精霊、かもしれない」
ミラは、目を丸くした。
「大丈夫だった?」
「怖くなかった」とアルテは言った。「大きかったけど、怖くなかった。むしろ——」
アルテは、少し言葉を探した。
「会いに来てみてよかった、という気持ちでした」
ミラは、少し考えてから言った。
「アルテらしいね」
「そう?」
「うん」とミラは言った。「普通の人は、怖いって思う。アルテは、会いに来てよかった、って思う」
アルテは、少し笑った。
「怖くなかったのは、精霊たちが一緒だったからかもしれない」
「それも、アルテらしいよ」
◆◆◆
その夜、アルテはあの紙に書いた。
エヴァの森に、正式に入った。カトさんという冒険者と、ロアン先生と一緒に。森の境目で、古い何かの気配を感じた。主精霊、かもしれない。葉っぱが一枚、落ちてきた。春なのに。怖くなかった。むしろ、もっと知りたいと思った。カトさんが、また連れていくと言ってくれた。次は、少し奥まで行けるかもしれない。精霊たちが森にいると、楽しそうだった。わたしもそれを見て、楽しかった。
暖炉の前に座った。炎が揺れていた。
今日の森の気配を、もう一度思い出した。大きくて、古くて、静かで——それでも、近づいてきてくれた何かを。
「おやすみ」と言った。
炎がふわりと揺れた。精霊たちが、今日は少し元気よく光った。森に行ったからか、いつもより活き活きとしているように見えた。
水都の夜が深くなった。街の外れ、エヴァの森はもう暗いだろう。でも、精霊たちはそこにもいる。光精霊も、森の精霊も、主精霊も。みんな、今夜もそれぞれの場所にいる。
アルテは、それを思いながら、目を閉じた。




