翌朝のエラン
朝の礼拝に、エランが少し遅れてきた。
珍しいことだった。エランは見習いの中で、いつも一番早く本堂に来る。今日は最後の鐘が鳴ってからの入室で、ロアン神官が一瞬だけ目を向けたが、何も言わなかった。
アルテは祈祷書を開きながら、横目でエランを見た。
いつもと違う顔だった。少し、眠れていないような。
礫拝が終わって、講義の前の短い休憩時間。アルテはエランに近づいた。
「おはよう」
「おはようございます」とエランは言った。声はいつも通りだった。でも目の下に、薄い影があった。
「眠れなかった?」
エランは少し止まった。
「……あまり」
「昨日のこと?」
エランは肯定も否定もしなかった。ただ、視線を少し逸らした。
◆ ◆ ◆
講義の合間、自由時間になった。
アルテは中庭に向かった。エランがそこにいることを、半分予想していた。回廊の隅、第八話で見た場所と同じあたりに、エランは座っていた。今日は書物を持っていた。でも読んでいなかった。膝の上で開いたまま、ページが風に揺れていた。
アルテは近づいて、隣に座った。
「何、読んでるの」
「……読んでいません」
「うん、見ればわかる」
エランは少し苦笑した。
「昨日のこと、考えていました」とエランは言った。「一晩中」
「一晩中?」
「眠ろうとしましたが、考えてしまって」
アルテは少し驚いた。エランがそこまで考え込むほどのことを、自分は言ったのだろうか。
「何を考えてたの」
「あなたが言ったことです」エランは書物を閉じた。「『同じだよ。可能性を認識するって言いながら、結局疑ってる』」
「……そんなこと言ったっけ」
「言いました」とエランは、はっきりと言った。「それを聞いて、最初は反論しようとしました。違う、と。でも——一晩考えて、思いました。あなたの言う通りかもしれない、と」
◆ ◆ ◆
アルテは黙って続きを待った。
エランは少し、言葉を探していた。
「『考えておくべきだ』と思っていることが、本当に『考える』ことなのか。それとも——最初から、来る人々を『リスク』として見ているだけなのか。その違いを、わたしは自分で説明できませんでした」
「説明できない、っていうのは」
「区別できていない、ということです」エランは言った。「あなたに言われて、初めて気づきました」
アルテは少し考えた。
「でも」とアルテは言った。「エランが言ってたことも、全部間違いじゃないと思う」
エランがアルテを見た。
「もし本当に、誰かを傷つけようとする人が来たら——どうしたらいいか、わたしは考えてない。エランの言う通り、考える前に動いちゃう。それで間に合わなかったら——」
アルテは少し止まった。
「間に合わなかったら、誰かが傷つく」
◆ ◆ ◆
二人は、しばらく黙った。
中庭の薬草に、朝露がまだ残っていた。光が当たって、小さく光っていた。光精霊たちが、その露の上で揺れていた。
「だから」とエランは言った。「わたしのような人間が、必要なんだと思います」
「エランのような人間って」
「考える人間です」エランは言った。「あなたが信じることを、わたしは確かめる。あなたが動く前に、わたしが少し先を見る。そういう役割が——あってもいいのではないかと」
アルテは、エランを見た。
「それ、昨日も似たようなこと言ってたよね」
「言いました。でも昨日は——」エランは少し言葉を探した。「対立として言いました。今は、違います」
「違うって、どう違うの」
エランは少し考えた。それから、静かに言った。
「あなたの隣に立つための言葉として、言っています」
◆ ◆ ◆
アルテは、その言葉を、ゆっくりと受け取った。
第四章の予告で見たような言葉だと思った。いや、そんなことアルテは知らない。ただ、その言葉が、何か大きな意味を持っているような気がした。
「対立として言われた時は」とアルテは言った。「正直、ちょっと腹が立った」
「すみません」
「でも、隣に立つための言葉として言われると——」アルテは少し考えた。「なんか、安心する」
エランは少し、目を細めた。
「安心、ですか」
「うん。考える前に動くわたしの後ろに、考える人がいる。それって、心強い」
エランは、初めて——本当に初めて、アルテの前で柔らかく笑った。緊張も、防御もない笑い方だった。
「そう言ってもらえると」とエランは言った、「眠れなかった甲斐がありました」
アルテも笑った。
◆ ◆ ◆
その日の午後、ベルトが薬草園で作業をしているところに、アルテとエランが二人で来た。
エランが、少し緊張した様子でベルトに頭を下げた。
「ベルトさん、と聞いています」とエランは言った。「ミルヴァから来られたと」
「そうだ」とベルトは言った。少し警戒した目で、エランを見た。アルテはそれに気づいた。エランの硬い雰囲気は、慣れない人には警戒される。それは、エラン自身もわかっているはずだった。
エランは、少し息を吸った。
「ミルヴァのこと、いくつか聞いてもいいですか」とエランは言った。「神殿の記録のために。もし——お話しできる範囲で」
ベルトは少し考えた。それから、シャベルを置いた。
「いいよ」と言った。「何が知りたい」
エランは、丁寧に質問を重ねた。ミルヴァの地理、戦争の経過、避難の経路。事実を確認するような質問だったが、無遠慮ではなかった。ベルトが話したくない部分には、立ち入らなかった。
アルテは、二人の会話を見ていた。
エランの質問は、ベルトを「リスク」として見るためのものではなかった。それは——この街に、これから来るかもしれない人たちのために、エランが知ろうとしていることだった。
◆ ◆ ◆
話が終わって、ベルトが言った。
「あんた、神殿の役人みたいだな」
「見習いです」とエランは言った。
「将来は、役人になるのか」
エランは少し考えた。
「……まだ、わかりません」と言った。「でも、考える仕事がしたいと思っています」
ベルトは、少し笑った。
「考える人間は必要だ」とベルトは言った。「うちの村にも、考える人間がいたら——もっと早く逃げられたかもしれない」
エランは、何も言わなかった。その言葉を、しっかりと受け止めた顔をしていた。
アルテは、二人の間に、何か新しい繋がりが生まれた気がした。
◆ ◆ ◆
夕方、アルテとエランは並んで神殿丘を下りた。
「ベルトさんと話してくれてありがとう」とアルテは言った。
「お礼を言われることではありません」エランは言った。「自分が知りたかったので」
「知って、どうするの」
「記録します。それから——」エランは少し考えた。「もし他の難民の方が来た時、どう対応すればいいか、少しずつ考えておきます」
「それ、すごく大事なことだと思う」
「あなたが動いて、わたしが考える」エランは言った。「それで、いいですか」
アルテは頷いた。
「うん。それでいい」
夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。光精霊が、二人の間で揺れていた。
◆ ◆ ◆
夜、アルテは紙にこう書いた。
エランと、新しい約束ができた気がする。わたしが動いて、エランが考える。それぞれ違う場所に立って、でも同じ方向を向いている。昨日の言い合いがなかったら、この約束はできなかったと思う。喧嘩することにも、意味があるのかもしれない。
暖炉の前に座った。炎が揺れていた。
「今日は、いい一日だった」とアルテは言った。
炎が、明るく揺れた。
「おやすみ」と言った。
精霊たちが、静かになっていった。
水都の夜が深くなった。今夜は、心が軽かった。喧嘩した翌日に、こんなに心が軽くなるとは思わなかった。




