エランとの言い合い
その日の午後の講義は、神学だった。
テーマは「精霊教と一神教浄化派の歴史的対立」。ロアン神官が大陸の地図を黒板に描き、過去に起きた宗教対立の事例を説明していた。アルテはノートを取りながら聞いていたが、途中でエランが手を挙げた。
「質問があります」とエランは言った。「浄化派が精霊教徒を迫害した歴史的事例について、神殿は今もそれを『過去のこと』として扱っていますが、現在進行中の戦争にもこの対立構造は影響しているはずです。その点について、神殿としての見解はありますか」
ロアン神官は少し止まった。
「神殿は政治的な見解を述べる立場にありません」
「では」とエランは続けた。「もしこの街に、浄化派の影響を受けた者が来た場合、神殿はどう対応するんですか。難民として受け入れている人々の中に、戦争の当事国出身者が混在する可能性はあります」
教室が少し静かになった。
ロアン神官は、いつもより長く黙った。
「現時点では、その心配はしていません」とロアン神官は言った。「来る者は皆、ここでは等しく扱われます」
「理想論としては正しいと思います」とエランは言った。「しかし現実的に——」
「エラン」とロアン神官は言った。少し強い声だった。「講義はここまでにします」
◆ ◆ ◆
講義の後、アルテは廊下でエランに追いついた。
「あんな言い方しなくてもよかったんじゃない」とアルテは言った。
エランは足を止めた。
「あんな言い方とは」
「『現実的に』とか。ロアン先生、困った顔してた」
「困った顔をしていたのは」とエランは言った、「答えを持っていないからです。それは事実を指摘しただけです」
「事実かもしれないけど、言い方ってあるでしょ」
「言い方を選んで、問題が変わるわけではありません」
アルテは少し苛立った。
「ベルトさんのこと知ってる? ミルヴァから来た人。あの人を見て、戦争の当事国出身かどうかとか、そんなこと考える?」
「考えます」エランは即座に答えた。「考えるべきです」
「なんで」
「現実を見ないことは、優しさではありません。むしろ無責任です」
◆ ◆ ◆
アルテは、何か熱いものが胸の中で動いた気がした。
「無責任って」とアルテは言った。声が少し大きくなった。「ベルトさんは、村がなくなって、一月以上歩いてここまで来た人だよ。それを『戦争の当事国出身かもしれない』なんて、最初から疑うのが正しいの?」
「疑うのではなく」エランは少し声を強めた。「可能性を認識することです。違いがわかりませんか」
「同じだよ。可能性を認識するって言いながら、結局疑ってる」
「では、何も考えずに全員を信じることが正しいんですか。それで万が一、何かが起きたら——」
「何かって何?」アルテは遮った。「具体的に言ってみて」
エランは一瞬、言葉を止めた。
「……具体的な事例は、まだありません」
「じゃあ、何のために言ってるの」
「可能性を、考えておくべきだと言っているんです」
「考えておくのと、最初から疑うのは違うって、エランも言ったじゃない。でもさっきの言い方は、疑ってるみたいに聞こえた」
エランは何も言わなかった。アルテも黙った。
廊下に、二人だけの沈黙が落ちた。
◆ ◆ ◆
「アルテは」とエランが、少し低い声で言った。「優しいです。それは知っています」
「だったら——」
「でも優しさだけでは、守れないものがあります」
「守るって、何を」
「この街を」
アルテは少し息を止めた。
「この街がもし、外から来た人の中の誰かによって——いえ、誰のせいでもなく、何かのきっかけで混乱が起きたら。それを考えておくのが、神殿の見習いの務めだと思います」
「考えておくのが務めだとして」とアルテは言った。「それを、来た人の前で口に出すことが、正しいの?」
「口に出してはいません。あなたに言いました」
「わたしに言っても、わたしがベルトさんと話すのは変わらない」
「それは、あなたが——」
エランは、言葉を止めた。何か言いかけて、止めた。
「……それは、あなたがそういう人だから、ですね」
「どういう人」
「考える前に、動く人です」
それは前にミラが言った言葉と同じだった。でも今、エランの口から出る時は、少し違う響きを持っていた。褒めているのか、批判しているのか、どちらともつかなかった。
◆ ◆ ◆
「それが、わたしです」とアルテは言った。少し強く。「考える前に動く。それで、間違ってる?」
エランは、すぐに答えなかった。
「間違っているとは言っていません」と、しばらくして言った。「ただ——」
「ただ、何」
「ただ、あなたが動いた後を、誰かが考えなければならない」
アルテは黙った。
エランは続けた。
「あなたがベルトさんに親しく接することは、いいことです。でも、その先に何があるか——あなたが聖女としてどう見られるか、神殿がどう見られるか、それを考える人間も必要です」
「それがエランの仕事だっていうの?」
「そうです」とエランは、はっきりと言った。「あなたが光を持つ人間なら、わたしは——その光が、正しい場所に届くように考える人間です」
アルテは、その言葉を聞いて、何も言えなくなった。
◆ ◆ ◆
長い沈黙が続いた。
廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。光精霊たちが、二人の間で少し落ち着かない様子で揺れていた。
アルテは、ゆっくりと息を吐いた。
「……エランが、そんなことを考えてるとは思わなかった」
「考えてほしいと思っていたわけでもありません」とエランは言った。「言われて初めて、自分でも気づきました」
「気づいた?」
「自分が、何のためにここにいるのか」エランは少し、視線を落とした。「家の決まりでここに来た。でも今は——あなたが動いた後を、考える人間でいたいと思っています」
アルテは、エランの顔を見た。
いつもの硬い表情の下に、何かが見えた気がした。第八話で見た、窓の外を見ていた横顔と同じ何か。
「ごめん」とアルテは言った。「さっき、強く言いすぎた」
「いえ」とエランは言った。「わたしも、言い方が悪かった」
二人とも、すぐにはそれ以上言えなかった。でも、空気が少し変わっていた。さっきまでの熱は、まだ残っていたが、形が変わっていた。
◆ ◆◆
夕食の時間、ミラがアルテとエランの様子を見て、小声で言った。
「何かあった?」
「言い合いした」とアルテは言った。
「珍しい。何について?」
「ベルトさんのこと。外から来る人のこと」
ミラは少し考えた。
「それで、どうなったの」
アルテはエランを見た。エランは食事をしながら、いつものように背筋を伸ばしていた。でも時々、ちらりとアルテの方を見た。
「わからない」とアルテは言った。「まだ、考えてる」
「何を考えてるの」
「エランが言ったこと。動いた後を考える人がいる、っていうこと」
ミラは少し首を傾げた。
「それは……アルテにとっては、新しい考え方?」
「うん」とアルテは言った。「新しい」
◆ ◆ ◆
夜、アルテはあの小さな紙に書いた。
エランと言い合った。エランは「動いた後を考える」と言った。わたしは考える前に動く。それは間違っていないと思う。でもエランの言葉も、間違っていないと思う。二つは矛盾しているようで、実は両方が必要なのかもしれない。わたしにはエランの考え方ができない。エランにはわたしの動き方ができない。だから、二人でいる意味があるのかもしれない。
書いてから、少し考えた。
図書庫で読んだ言葉を思い出した。エランが言っていた、神学と精霊の関係についての話。「違う場所から見ているだけ」とアルテは言った。あの時のアルテの言葉が、今のアルテに返ってきている気がした。
暖炉の前に座った。炎が揺れていた。
「今日はちょっと、難しい一日だった」とアルテは炎に言った。
炎が、少し小さく揺れた。慰めているような揺れ方だった。
アルテは少し笑った。
「おやすみ」と言った。
炎がふわりと揺れた。精霊たちも、静かになっていった。
水都の夜が深くなった。今夜は、いつもより少し、考えることが多い夜だった。




