フレンツさんのこと
大祭の翌日は、街が静かだった。
昨日あれだけ賑やかだったのが嘘のように、幹線運河沿いに人影は少なく、市場区も半分以上の屋台がまだ閉まっていた。篝火の跡が石畳に残っていて、花びらが水路の縁に溜まっていた。祭りの残骸が、昨日の熱を静かに教えていた。
アルテは午前の講義が休みだったので、一人で聖環水路沿いを歩いた。ミラは昨日の疲れで眠っていた。エランは自習室にいた。いつも通りのエランだった。
光精霊たちも、昨日より静かだった。大祭の夜にはしゃいだ分、今日は落ち着いているのかもしれなかった。
石橋のたもとまで来た時、ベンチに人が座っているのが見えた。
茶色の上着だった。
アルテは足を緩めた。フレンツは水路を見ていた。昨日の花びらがまだ浮かんでいる水面を、静かに眺めていた。
アルテは近づいた。
「また会いましたね」
◆ ◆ ◆
フレンツはアルテに気づいて、少し表情が柔らかくなった。
「昨日、向こう岸にいたでしょう」
「気づいていましたか」
「手を振ってくれた」とフレンツは言った。「見えました」
アルテはベンチの隣に座った。今日も質素な茶色の上着で、荷物は何も持っていなかった。
「大祭、楽しめましたか」とアルテは聞いた。
「楽しみました」フレンツは水面を見ながら言った。「ああいう祭りを、まともに見たのは久しぶりだった気がします」
「久しぶり?」
「ここ数年、ゆっくり祭りを見る時間がなかった」
「仕事が忙しいんですか」
「そういうことです」とフレンツは少し笑って言った。「昨日は久しぶりに、ただ見ていられました。アルテさんたちが橋の上にいるのも見えていた。楽しそうだった」
「楽しかったです」とアルテは言った。「一年で一番、ただのアルテでいられる日なので」
フレンツはアルテを見た。
「ただのアルテ」と繰り返した。
「神殿の外を普通に歩けるのが、祭りの日くらいなので」
フレンツはしばらく黙っていた。水面を見ていた。それから静かに言った。
「わかります、その感覚」
アルテは少し首を傾けた。
「フレンツさんも、普段は外を歩けないんですか」
「歩けないわけではないけれど」フレンツは少し考えた。「歩く時に、何かを意識しないといけない。昨日と今日は、それをしなくていい」
「何を意識するんですか」
フレンツは少し間を置いた。
「見られていること、です」
◆ ◆ ◆
見られていること。
アルテはその言葉を、静かに受け取った。
自分にも似たものがあると思った。神殿の中で「聖女様」と呼ばれる時、どこかで見られている感覚がある。祭りの日に白衣を着て祭壇に立つ時、本堂にいる全員の視線が集まっている感覚がある。それは怖いとも重いとも少し違う、ただただ、外側から見られているという感覚。
でもフレンツは神殿の人間でも聖女でもない。なぜ見られているのだろう。
聞こうとして、少し止まった。踏み込んでいいかどうか、わからなかった。
フレンツが先に言った。
「アルテさんも、そういうことはありますか」
「あります」とアルテは正直に答えた。「聖女というものは、見られているものらしくて。いつの間にかそれに慣れていますけど、たまに、ただのアルテに戻りたくなります」
「ただのアルテとは、どんな人ですか」
アルテは少し考えた。
「礼拝中に考えごとをする人で、図書庫に無断で入る人で、市場で焼き栗を食べる人で、炉端妖精におやすみを言う人です」
フレンツは一瞬、目を細めた。笑ったのかもしれなかった。
「炉端妖精に」
「毎晩」
「それは」フレンツは少し考えてから言った、「十分、ただのアルテだと思います」
「そうですか」
「そうです」
アルテは水面を見た。花びらが一枚、ゆっくりと流れていった。
◆ ◆ ◆
しばらく沈黙が続いた。
不思議な沈黙だった。気まずくなかった。ただ、水の音と遠くの街の音だけがあって、二人でそれを聞いていた。
光精霊が、フレンツのそばに来ていた。今日も離れなかった。
アルテはふと、聞いてみた。
「フレンツさんは、この街が好きですか」
フレンツは少し驚いたような顔をした。それから、真剣に考えた。すぐに答えなかった。
「好きです」とフレンツは言った。「ずっとここにいると、当たり前になってしまって、好きかどうか考えなくなる。でも改めて聞かれると——好きだと思います。運河と、街の音と、神殿の光と」
「ずっとここに?」とアルテは聞いた。「生まれからずっと?」
「そうです」
「わたしもです」とアルテは言った。「生まれた時からここにいる。だからこの街しか知らない」
「それは」とフレンツは言った、「悪いことではないと思います」
「でも時々、外を知らないのは、何かが足りないことかなと思って」
「外を知っているからといって」フレンツは少し考えながら言った、「いいものを持てるわけではない。あなたが今ここで感じていること、見ていることの方が——」
フレンツは言葉を止めた。少し迷っているようだった。
「ずっと大切にできるものかもしれない、と思います」
アルテはその言葉を、ゆっくりと受け取った。
外を知らなくてもいい、という慰めではなかった。ここにいることで持てるものがある、という話だった。違いは小さいようで、アルテには大きかった。
「ありがとうございます」と言った。
フレンツは首を振った。礼を言われるようなことを言っていない、という首の振り方だった。
◆ ◆ ◆
「今日帰るんですか」とアルテは聞いた。
「昼過ぎには戻らないといけない」とフレンツは言った。「また少し、忙しくなるので」
「そうですか」
「来年の光誕祭にも来ます」とフレンツは言った。「約束します」
アルテは少し笑った。
「今年も来てくれてよかったです」
「わたしも」とフレンツは言った。「来てよかった」
フレンツが立ち上がった。上着の裾を整えた。それからアルテを見た。
「アルテさん」
「はい」
「精霊たちを、大切にしてください」
少し意外な言葉だった。アルテは少し考えてから言った。
「していますよ。毎晩おやすみを言っているので」
フレンツはそれを聞いて、今度こそはっきりと笑った。光誕祭の時より、少し違う笑い方だった。どこか、ほっとしたような。
「それなら安心しました」
石畳を歩いて、橋を渡っていった。今日は振り返らなかった。でも橋を渡りきる直前に、少しだけ歩く速度が落ちた気がした。
光精霊が、その背中を少しの間だけ追いかけた。それからアルテの元に戻ってきた。
アルテは水面を見た。花びらがまた一枚、流れていった。
——来年も来てくれる。
それだけで、十分だと思った。それ以上のことは、今は何も考えなかった。
◆ ◆ ◆
神殿に戻ると、ミラが見習い棟の前で待っていた。
「どこ行ってたの。一人で」
「散歩」
「またフレンツさんに会った?」
アルテは少し驚いた。「なんでわかるの」
「顔」とミラは言った。「昨日あの人に手を振った後も、同じ顔してたから」
「同じ顔って、どんな」
ミラは少し考えた。
「穏やかな顔」と言った。「嬉しいとも違う、悲しいとも違う。ただ、穏やかな顔」
アルテは少しだけ照れた。
「いい人なんだよ」とアルテは言った。「飾らなくて、正直で」
「また会えるといいね」とミラは言った。
「来年の光誕祭に来るって言ってた」
「じゃあ来年ね」ミラは笑った。「楽しみにしておこう」
二人で見習い棟に入った。廊下に昼の光が差し込んでいた。精霊たちが光の中で揺れていた。
アルテは今日の会話を、頭の中でもう一度なぞった。
外を知らなくてもいい、ではなく、ここにいることで持てるものがある。
その言葉を、大切にしまっておこうと思った。
◆ ◆ ◆
夜、アルテは今日のことをあの小さな紙に書いた。
報告書でも、歴代聖女の記録の読書メモでもない、自分だけの紙に。
フレンツさんに会った。また来年来てくれると言っていた。ここにいることで持てるものがある、と言われた。外を知らないわたしへの慰めではなく、ここにいるからこそのものがある、という話だった。その違いが、なぜかとても大切な気がした。来年の光誕祭が、少し楽しみになった。
書いてから、また少し恥ずかしくなった。でも今日も消さなかった。
暖炉の炎が揺れていた。
「おやすみ」と言った。
精霊たちも、静かになっていった。
水都の夜が深くなった。大祭は終わり、街は眠りに就いていた。運河だけが、変わらずに流れていた。
来年も、この運河は流れている。
来年も、光誕祭は来る。
来年も——アルテはここにいる。




