第10話「誰にも言えないけど――これからも、あなたと」
「……じゃあ、行ってきます」
春のやわらかな陽射しが差す玄関。
スーツ姿の悠人が、カバンを肩に掛けながら、ドアノブに手をかけた。
その背後――
エプロン姿のほのかが、そっと手を伸ばし、彼の背中にふれる。
「ちょっと待って」
「ん?」
「……今日、朝のキス、まだだったでしょ?」
「……あ」
くるりと振り返る。
そこで、ほんの一瞬、見つめ合う。
そして。
ふわりと、キス。
まるで、“いってらっしゃい”と“いってきます”の代わりに。
それはもう、毎日の習慣になっていた。
「……行ってきます」
「気をつけてね。帰ったらまた……夜のキス、ね?」
「うん。約束」
⸻
大学生活と声優業。
相変わらずすれ違う時間も多いけれど、ふたりの心は、いつもひとつだった。
誰にも言えない。
世間に公表することは、まだできない。
でも――
誰かに祝われなくても。
誰の目にも触れなくても。
それでもこの恋は、
“本物”だと、ふたりだけが知っていた。
⸻
夜。
いつもより少し遅く帰ってきた悠人に、ほのかが手料理を用意して待っていた。
「今日はね、結婚してちょうど3か月記念日なの。覚えてた?」
「……うん。忘れるわけない」
「なら、記念日らしく――今夜は、改めて誓おうか?」
そう言って、ほのかはテーブルに置いていた箱を取り出した。
中には、シンプルな銀の指輪がふたつ。
「今日だけは、ちょっとだけ結婚式ごっこ。…ね?」
彼女が差し出した指輪を、悠人はおそるおそる指にはめた。
自分の指には、ぴったりと収まった。
「……重い」
「そう。これは“秘密”の重さなのよ」
「でも、悪くない」
ふたりは、部屋の真ん中に立ち、何もない空間に向かって、そっと誓いを立てる。
「誰にも言えないけど……僕は、あなたを一生、大切にします」
「私も――どんな役を演じるときも、“妻”である自分だけは演じずに、あなたの隣にいます」
そして、ふたりは静かに、誓いのキスを交わした。
⸻
それは、今まででいちばん長いキスだった。
言葉はいらなかった。
音も、光も、祝福の拍手もいらなかった。
ふたりだけの、ふたりのためだけの、静かな永遠。
⸻
唇を離したあと、ほのかはそっと言った。
「私、思うの。
きっとこれからも、何度もこの秘密が苦しくなる日があるって。
でもね――」
彼女は、悠人の手をきゅっと握りしめる。
「あなたとだから、この秘密は“幸せな秘密”になる気がするの」
悠人は、そっと彼女の髪を撫でて、笑う。
「“誰か”じゃなくて、“あなた”だから、結婚したんだよ」
「ふふ……ずるい。そういうの、最後に言うなんて」
「だって、最後のキスだよ。今日の、いちばん最後の」
そして、ふたりはもう一度――
優しく、静かに、深く、ふたりだけのキスを交わした。
⸻
たとえ誰にも知られなくても。
たとえこの愛が、永遠に“秘密”であっても。
それでも、ふたりは信じている。
本当に大切なことは――声にならない想いと、交わした唇が、すべてを物語ってくれることを。
完
『交際0日婚ですが、声の人に恋して――ファンレターで始まった極秘結婚。』
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