第9話 追手の騎士まで助けるのか
ルーデン渓谷を見下ろす山道は、人が一人通るのがやっとの細さだった。
右は岩壁。左は谷底。橋の崩落でアデルの部隊とは切り離せたが、フィンの地図によれば、この先の山腹にある断界井まで一時間はかかる。
「止まれ!」
背後から低い声が飛んだ。
振り返ると、黒い甲冑の一隊が道の曲がり角を塞いでいた。先頭には、長身の男が黒い槍を構えている。
「黒槍のガレスだ」
フィンが声を落とした。
転移者追跡隊の隊長。アデルとは別に東の山道を回り、対岸側へ先行していたらしい。
ガレスの隻眼が俺を捉えた。
「逃げ場はない。捕縛しろ。抵抗するなら足を射抜け」
弓兵が弦を引き、前衛二人が剣を抜く。
俺とフィンの前には、まだ長い登りが続いている。積載率は十八パーセント。走り切れる距離ではない。
前衛の騎士が三歩踏み出した時、視界の上を黒い線が横切った。
【発生まで一分】
【災害種別:落石・路肩崩落】
【想定死者:二名】
騎士二人の頭上で、岩壁の一部が浮いている。細かな砂が落ち、その下の路肩にも亀裂が伸びていた。
無視すれば、追手は勝手に減る。
それでも、見えてしまった。
「上だ! 壁から離れろ!」
二人は怪訝な顔で足を止める。
ガレスだけが俺の視線を追った。岩壁から落ちる砂を見つけ、即座に槍を振る。
「退がれ!」
騎士たちが後ろへ跳ぶ。
岩が崩れた。
直撃は免れたが、落石が路肩へ当たり、脆い土を削る。
「うわっ!」
一人が足を滑らせた。もう一人が腕を掴み、谷へ落ちる寸前で支える。
救助へ駆け寄ろうとした騎士を、俺は止めた。
「縁へ集まるな! 全員で乗れば道ごと落ちる!」
路肩の亀裂は、腕を掴んだ騎士の踵まで届いている。
俺は周囲を見た。
道の内側に露出した松の根。ガレス隊の荷に巻かれた長い牽引用の綱。少し上にある、地中へ半分埋まった大岩。
「隊長、あんたらは落ちた人間の引き上げ方を知っているな」
「当然だ」
「なら支点だけ変えろ。綱をあの大岩の裏へ回す。縁へ出るのは一人だけだ。腕を掴んでる奴は、右足を松の根へかけて、谷側へ体重を預けるな」
ガレスは大岩と亀裂を一度見比べた。
「二名で大岩へ綱を回せ。救助班は縁から一歩下がれ」
命令を受けた騎士が動く。
綱が大岩を回り、輪にした先端が宙吊りの騎士へ投げられた。落ちかけた男は片腕を通し、胸の前で締める。
「一度に引くな。三つ数えて、同じ速さで巻け!」
ガレスの号令に合わせ、騎士たちが綱を引いた。
腕だけで支えていた荷重が大岩へ移る。路肩の土を踏まず、男の身体が少しずつ持ち上がった。
最後にガレス自身が襟を掴み、騎士を安全な道へ引き込む。
二人とも生きている。
その直後、限界を迎えた路肩が崩れた。
土砂は谷へ落ちたが、もう巻き込まれる者はいない。黒い伝票も消えている。
今回は《集荷》する必要がなかった。
「追手を、助けたのか」
引き上げられた騎士が、泥にまみれた顔で俺を見た。
弓兵の一人が、俺の隙へ狙いをつける。
黒い槍が、その射線を塞いだ。
「弓を下ろせ」
「隊長、しかし」
「落石は奴の罠ではない。奴の指示がなければ二人死んでいた。命の恩人を背後から射ることは禁ずる」
ガレスは俺を称えるでもなく、槍を下ろした。
「道が崩れた。隊列を組み直し、負傷者を後送する」
「追跡は」
「続ける。だが今は部下が先だ」
その答えなら理解できる。
俺はフィンへ顎をしゃくり、山道を進んだ。
「次はあんたらの命まで拾ってやる余裕はない」
「次も見えるとは限らん。自分の足元を見て進め」
背後から返った声に、フィンが小さく笑った。
崩落箇所を挟み、追跡隊との距離が開いていく。
やがて、山の斜面に開いた洞窟が見えた。入り口には、教会の封鎖を示す朽ちた杭が立っている。
「断界井だ」
フィンが父親の地図を確かめる。
洞窟へ入ると、乾いた冷気が肌を撫でた。
壁には、刃物で削った文字が残っている。
この世界の文字ではない。
ひどく乱れてはいるが、俺には読めた。
『ここは逃げ道じゃない』
その下に、さらに深い傷で続いている。
『俺たちは、同じ道を走らされている』
俺は文字を指でなぞった。
俺たち。
ここへ来た転移者は、一人ではない。




