第10話 前の転移者は英雄か、殺人鬼か
『ここは逃げ道じゃない』
『俺たちは、同じ道を走らされている』
洞窟の壁へ刻まれた日本語は、その二行だけではなかった。
奥へ進むにつれ、短い言葉が増えていく。
『井戸は塞がれた』
『荷を捨てさせないためだ』
『朝になると居場所が出る』
俺と同じ能力を持ち、同じように追われた人間が、ここへ辿り着いていた。
「なんて書いてあるんだ」
フィンが壁を見上げる。
「過去の転移者も、断界井を探していた。だが、ここは逃げ道じゃなかったらしい」
「親父の地図にも、教会が封鎖したって印がある。転移者が危ないなら、災厄を捨てる場所は開けておいた方がいいはずだろ」
その通りだ。
転移者が災厄を溜め込んで怪物になるというなら、なぜ教会は排出先を塞ぐ。
答えはまだ出ない。
洞窟の奥には、太い鉄鎖を巻かれた石造りの円筒があった。大人三人でようやく囲める太さだ。鎖の結び目には、天秤の紋章を描いた護符が何枚も貼られている。
「これが断界井だ」
フィンは父親の保守記録を広げ、円筒の側面を調べた。
「鍵は外されてる。護符を破れば警報が出るし、全部壊す時間もない」
「開ける必要はないかもしれない」
俺は鎖の隙間へ右手を入れ、石へ触れた。
【配達可能】
【封鎖により容量制限】
頭の中へ、無機質な表示が浮かぶ。
「下がってろ」
息を整え、配達を意識した。
左腕の黒い亀裂が動き出す。手首から指先へ集まり、俺の右手を経由して石の円筒へ吸い込まれていった。
熱が引く。
毒の災厄が残していた発熱も、主鎖の破断を引き受けた時の重さも、少しずつ薄れていく。
護符が赤く明滅した。
亀裂の移動が止まる。
【配達終了】
【積載率:12%】
【未配達分・内部破裂まで五十八時間】
左腕にはまだ黒い線が残っていたが、指は曲げられる。肩に入っていた余計な力を抜き、俺は石から手を離した。
「全部は捨てられなかったのか」
「封鎖のせいで六パーセント分だけだ。それでも動ける」
フィンが護符を睨んだ。
「やっぱり変だ。使えば転移者が軽くなる設備を、わざわざ半殺しにしてる」
円筒の脇には、保守員が使ったらしい小さな操作卓があった。埃を払うと、半透明の結晶板が埋め込まれている。
フィンが父親の記号と見比べ、側面の溝へ指を入れた。
「記録石だ。事故が起きた時の映像を残す」
結晶板が淡く光った。
洞窟の壁へ、荒れた映像が浮かび上がる。
黒い亀裂に全身を覆われた男が、椅子へ拘束されていた。顔は痩せ、髪も乱れている。それでも口から出た言葉は日本語だった。
『人を救うたび、力が増えた』
かすれた声。
『もっとあれば、何でもできると思った。だから俺が火をつけた。街を焼いた』
映像が切り替わる。
夜の街が燃えていた。黒い獣のような影が炎の中を歩き、人々が逃げ惑っている。
最後に、教会の文字らしい表示が浮かんだ。
『第八十七号転移者。自発的災厄収集の末、厄獣化。聖女隊が処刑』
「今の男も、最初は人を助けてたのか」
フィンの声が小さくなる。
俺は答えられなかった。
記録が本物なら、あの男は俺と同じところから始まり、自分で街を焼くところまで壊れた。
左腕へ目を落とす。
黒い亀裂は薄くなっただけで、消えてはいない。
人を救うたびに積載率は上がる。意識を失えば、何をするかも分からない。今は他人を助けたいと思っていても、その意思が最後まで残る保証はなかった。
「記録を持ち出せるか」
「結晶板ごとは無理だ。でも親父の写し方なら、時刻と識別番号は残せる」
フィンが羊皮紙へ数字を書き写し始める。
俺はもう一度映像を再生した。
男の口は、確かに「街を焼いた」と動いている。
ただ、音が一瞬だけ先に聞こえた気がした。
疲労のせいかもしれない。映像自体が古いせいかもしれない。
確かめる材料はなかった。
洞窟の外で、小石を踏む音がした。
俺は記録を止める。
複数の松明が、入り口から奥へ近づいてきた。
「崩れた橋を越えて、ここまで来るとは。驚くべき速さですね」
白い法衣と銀槍が、炎の向こうに現れる。
アデルの背後には四名の騎士。橋番の保守路を使い、渓谷の下流から回り込んだらしい。
「ですが、袋小路を選んだのは失敗です」
アデルの視線が、俺の左腕と断界井の間を往復した。
「ここで終わらせます。転移者」
銀の穂先が、胸へ向けられた。




