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第6話 村人全員が、違う方向を指した

煤けた納屋の隙間から、白々と夜が明けていくのが見えた。

フィンの警告から数時間。俺は藁の上から身を起こそうとしたが、身体は鉛のように重かった。

左腕の亀裂からは断続的な熱が走り、毒の災厄を集荷した影響で発熱も残っている。積載率十一パーセント。量はまだ低くても、荷の種類によって症状は違うらしい。


「来たぞ……」

隣にしゃがみ込んでいたフィンが、壁の隙間から外を覗き込んで息を詰めた。

朝もやを切り裂くように、多数の馬蹄の音が近づいてくる。広場に現れたのは、白の法衣を纏った処刑聖女アデルと、十数名の重武装の騎士たちだった。


「村長はいるか! 転移者がこの村に逃げ込んだはずだ!」

先頭の騎士が、広場に集まっていた村人たちに向けて怒号を飛ばす。

「あの化け物を匿えば、村ごと異端審問にかけられるぞ。どこにいるか、さっさと言え!」


「不確かな罪で村全体を脅すことは許しません」


アデルの声が騎士を制した。


「確認するのは転移者の足取りと、昨夜ここで起きた災害です。事実だけを尋ねなさい」


先頭の騎士は口を閉じた。それでも剣の柄へ置いた手は離さない。

納屋の中で、フィンが俺の袖を強く引いた。その目は「売られる」という確信と絶望に染まっている。

無理もない。彼らは俺を恐れていた。昨日の夕方、農具で俺を囲み、丸太に縛り付けたのは他でもない村人たちだ。

報奨金が得られ、さらに自分たちの無実が証明されるなら、転移者を差し出さない理由がない。


俺はふらつく脚に力を込め、立ち上がろうとした。

このまま納屋を探られれば、匿った村人まで巻き添えになる。ならば自ら出て行くしかない。

だが、俺が扉へ手を伸ばそうとした瞬間だった。


「その男なら、夜半に北の山へ向かって走っていくのを見たよ」

しわがれた声が、広場に響いた。

隙間から覗き見ると、昨晩俺に温かいスープを出してくれた村長の妻だった。彼女は怯える様子もなく、騎士を真っ直ぐに見据えて北を指差している。


騎士が眉をひそめた。

「北の山だと? 足跡は村へ向かっていたが」

「あら、山へ抜けるならこの村を通るのが一番早いからね」

老女が平然と答える。

すると、横にいた若い男が一歩前に出た。昨日、俺が井戸の水をぶちまけた男だ。

「いや、俺は南の街道へ向かうのを見たぞ! 夜明け前に、こそこそと出て行ったんだ!」


騎士たちが顔を見合わせる。

それを皮切りに、村人たちが次々と口を開き始めた。


「私は東の森に隠れるのを見た!」

「違う、西の川沿いへ下っていったはずだ!」

「あいつは足を引きずっていたから、そんなに遠くへは行けない。すぐそこの丘だ!」


広場は騒然となった。


もし事前に口裏を合わせていたなら、同じ方角を答えるはずだ。ところが、出てくる証言は東西南北へばらばらに散っている。


誰も相談せず、それぞれが俺を逃がすための嘘を選んだらしい。


「えっ……」

フィンが、信じられないものを見るように目を丸くしている。

俺も同じだった。彼らは俺を悪魔だと恐れていたはずだ。だが今、自分たちが処罰される危険を冒してまで、必死に騎士たちへ嘘をついている。


「静まりなさい」

澄んだ声が広場を制した。

馬から降りたアデルが、騎士たちをかき分けて前に出る。

彼女の眼差しが、村人たちと広場の魔導浄水塔を順に追う。


昨夜まで井戸から大鍋へ伸びていた黒い経路は、もうない。毒を口にした四人へ届くはずだった死だけが、俺の中へ移っている。


アデルは石の濾過器へ歩み寄り、割れ目へ指を添えた。


「井戸を覆っていた災厄が消えています。代わりに、転移者の残滓が村の各所へ薄く散っている」


俺を縛った広場、倒れた鍋、運び込まれた納屋。村中に痕跡が残っているせいで、現在地までは絞れないらしい。


アデルの視線が納屋の壁を一度なぞった。だが、そこで止まりはしなかった。


「証言が割れています。二名は井戸の破損時刻を調べなさい。残りは全方位へ展開し、村外の新しい足跡を追ってください」

「なっ、アデル様! しかしこの村の中に隠れている可能性も――」

「村の痕跡だけでは現在地を断定できません。ここで全員の家を荒らすより、外周を押さえる方が先です。行きなさい」


アデルの命令に逆らう者はいない。

騎士たちは舌打ちをしながら馬にまたがり、村人たちが指差した四方の道へと散っていった。

アデルは井戸へ残した二名へ指示を出すと、自らも北の道へ馬を走らせた。


馬蹄の音が完全に消え去った後。

ギィ、と納屋の扉が開いた。

立っていたのは村長だ。彼は広場で騎士に怒鳴られていた時とは違い、仏頂面のまま無造作に革袋を俺の足元へ放り投げた。


「水と干し肉だ」

村長は俺の顔を見ようともせず、吐き捨てるように言った。

「勘違いするな。我々はお前を信じたわけじゃない。ただ、毒水を飲まされた身内を助けてもらった借りを返しただけだ」

「……」

「とっとと出て行け。次に来たら、今度こそ必ず騎士に引き渡す」

それだけ言い残し、村長は足早に去っていった。

乱暴な言葉だった。だが、彼らがどれほどの恐怖を押し殺して騎士たちに嘘をつき、俺を守ってくれたのかは痛いほど伝わってきた。


「……すげえな、あんた」

フィンが革袋を拾い上げながら、感嘆の息を漏らす。

「あんなに怒ってた村の連中が、全員揃ってあんたを庇うなんて」


俺はフィンの肩を借りて、重い身体を引きずりながら納屋を出た。

誰も俺たちを見ようとはしない。村人たちは農作業に戻るふりをして、俺たちが背を向けて立ち去るのを無言で見送っていた。


村はずれの麦畑を越えた時だ。

俺の視界に張り付いていた『災厄票』の文字が、赤黒く変色して明滅を始めた。


【未配達災厄・内部破裂まで:七十二時間】

【配達先:封鎖済み断界井】

【未配達時:積載物の全量破裂】


俺の足が止まる。

腹の中の臓器が冷え切るような感覚だった。

集荷した災厄は、俺の中に留めておけるわけではないらしい。限界を超えれば、俺の身体を内側から破壊して外へ漏れ出す。

七十二時間。あと三日で、この身に溜め込んだ死の因果を処理しなければならない。


「どうした、おっさん」

顔をしかめる俺を見て、フィンが訝しげに尋ねる。

「……宛先だ。『断界井』という場所に心当たりはあるか」

俺が災厄票に記された名前を口にすると、フィンはハッとして自分の荷物から古い羊皮紙の束を取り出した。

「断界井……親父の保守記録にその名前があった。天秤塔の廃棄設備だ。一番近いのは、東のルーデン渓谷を越えた対岸の山腹だ」


フィンが羊皮紙の一枚を指差す。

そこには、東の山へ向かう複雑な経路が記されていた。

「行くしかないな」

俺は左腕の痛みを堪え、東の空を見上げた。

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