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第5話 転移者に、温かいスープを出すな

【発症まで:二分四十秒】


無慈悲な赤い数字が、網膜の裏で点滅している。

広場の中央では、煮上がったスープの香りが漂っていた。村の女たちが木製の器を並べ、大鍋から濁った汁を掬い上げようとしている。

丸太の柵に縛り付けられた俺の肩に、麻縄が深く食い込んでいた。左手は痺れ、右手も背中側へ回されている。自力で縄を解くのは不可能だった。

このままでは、六十三人が死ぬ。


背後で、微かな衣擦れの音がした。

丸太の裏側。村人たちの死角になる位置に、小さな影が張り付いている。

「動くなよ、おっさん」

フィンの掠れた声だった。

手には、どこかで拾ってきたらしい欠けた鎌の刃が握られている。フィンは震える手で、俺の手首を縛る麻縄に刃を押し当てた。

ギコギコと繊維が断ち切られる鈍い音が響く。

「見つかれば、お前も縛られるぞ」

「うるせえ。妹を助けてもらった借りを返すだけだ」

数秒後、最後の縄がふつりと切れた。


拘束が解けた瞬間、俺は地面を蹴った。

痺れる左腕を庇いながら、広場の中央へ駆け出す。

「あっ、おい! 転移者が縄を抜けただと!」

見張りの男が怒号を上げるが、遅い。

「鍋から離れろ!」


叫びながら、火の脇に置かれた長柄のかき混ぜ棒を右手で掴む。鍋は三本の鉄脚に載せられ、片側だけが排水溝へ向いていた。


棒の先を鍋底と鉄脚の間へ差し込み、体重をかける。


一本の脚が石から外れた。大鍋は人のいない排水溝側へ傾き、熱いスープが溝へ流れ落ちる。


湯気が立ち上り、村人たちの悲鳴と怒声が重なった。


「貴様ぁ! 我々の食事になんてことを!」

「殺せ! やっぱりこいつは呪いを撒き散らす悪魔だ!」

数人の男たちが鍬を振り上げ、俺に殺到しようとする。

俺は長柄を握ったまま怒鳴った。

「井戸の汲み上げを止めろ! そこの汲み置きの樽も全部ひっくり返せ!」

「ふざけるな! 誰がお前の指図など――」

「浄水用の魔力石の裏側を見ろ! ひび割れて、中から黒い液が漏れているはずだ!」


村のまとめ役である白髪の老人が、俺の気迫に押されたように動きを止めた。

「……井戸を調べろ。早く!」

老人の指示で、若い男が魔導浄水塔に駆け寄る。彼は水晶のような魔力石の裏側を覗き込み、顔を青ざめさせて叫んだ。

「村長! 魔力石が割れてます! 中から、泥みたいな臭い汁が……!」


広場が静まり返った。

振り上げられていた鍬が、ゆっくりと下ろされる。

魔力で濾過されているはずの地下水が、汚染された毒水に変わっていた。俺が大鍋を倒していなければ、今頃村人たちは全員それを飲み干していた。

だが、安堵する暇はない。

俺の視界の災厄票は、まだ消えていない。


【想定死者:四名】


防ぎきれなかった。

配膳の前、味見のために大鍋の端からスープを口にしてしまった者がいる。

広場の隅で、幼い子供と母親、二人の老人が腹を抱えてうずくまっていた。

「痛い……お腹が……!」

「おい、しっかりしろ! 誰か、毒消しの薬草を持て!」

村人たちがパニックに陥る中、俺は石畳を這うようにして苦しむ四人のもとへ向かった。


原因の汚染水を捨てさせても、すでに体内へ入った毒は消えない。


四人から伸びる黒い経路は、排水溝へ流れた同じ鍋の汁へ集まっていた。別々の病人ではなく、一つの汚染事故に結ばれた四つの死だ。


俺は濡れた鍋の縁へ右手を触れた。


死という『災厄』の中心へ触れる感覚。


【集荷】


脳内で無機質な声が響いた。

子供の痙攣が弱まる。母親と二人の老人も呼吸を取り戻した。毒そのものが消えたわけではない。だが、四人へ届こうとしていた死の経路は途切れている。


代わりに、俺の全身を業火のような高熱が叩きのめした。

「がっ……あ……!」

喉から掠れたうめき声が漏れる。

左腕の黒い亀裂が上腕へ向かって伸び、皮膚の内側を熱が駆け上がる。


【積載率:11%】


視界が明滅した。


転移してから走り続け、病人を背負い、拘束され、急性の毒の災厄まで受けた。積載率だけでは測れない疲労が一気に押し寄せる。


膝が折れた。石畳へ倒れ込む前に、誰かの腕が肩を支えたところで意識が途切れた。



土と麦藁の匂いがした。

ゆっくりと目を開ける。視界に映ったのは、煤けた木の天井だった。

冷たい石畳の上ではない。俺は納屋のような場所で、清潔な藁の上に寝かされていた。

左腕には痺れが残っていたが、指先はわずかに動いた。全身を焼いていた高熱も幾分か引いている。


「気がついたかい」

しわがれた声がして、毛布を被った老女が近づいてきた。

広場で俺に殺意を向けていた、村長の妻だ。

彼女の皺だらけの手には、湯気を立てる木製の椀が握られている。

「……ここは」

「うちの納屋だ。見張りは外に立たせている。あんたが暴れない限り、手出しはしないと約束させてある」

老女は俺の傍らに座り込み、木製の椀を差し出した。

「食べな。備蓄の樽の水で作ったスープだ。毒は入っちゃいないよ」


俺は椀を見つめた。

朝鐘告示で、転移者を匿うことは重罪だと通達されている。食事を与えることも、同罪と見なされるはずだ。

「法を破る気か」

「村の命を救ってもらったんだ。冷たい石畳で手配犯を死なせたら、朝起きた時に後味が悪いだろうが」

老女はぶっきらぼうに言い捨て、椀を俺の右手に押し付けた。

温かい。

椀から伝わる熱が、冷え切っていた身体の奥に染み渡る。

俺は無言で椀に口をつけ、塩と野菜だけの質素なスープをゆっくりと飲み干した。

異世界に転移してから、初めて得た食事と寝床だった。


椀を返し、再び藁の上に横たわる。

しばらくして、納屋の扉が僅かに開き、フィンが隙間から滑り込んできた。

フィンは俺がスープを飲んだ形跡を見て、小さく息を吐く。

「……死ななかったな、おっさん」

「まだな」

俺が身を起こそうとすると、フィンは真剣な顔つきで首を横に振った。

「ゆっくり寝てる暇はないぜ。さっき、見張りの奴らが話してるのを立ち聞きした」

フィンは納屋の外を気にしながら、声を落として告げた。

「村長が、西区の警備隊じゃなく、教会の騎士団に直接通報の鳥を飛ばしたらしい。明日の朝鐘が鳴る頃には、あの処刑聖女の追跡隊がこの村に着くぞ」


夜明けまで、あと数時間。

温かいスープの余韻は、冷酷なタイムリミットの提示によって打ち消された。

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