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第4話 井戸に届く六十三人分の災厄

西区の地下水路を抜け、城壁の外へ出る。太陽はすでに西へ傾きかけていた。

泥と苔の匂いが、土と麦の乾いた匂いに変わる。

歩みを止めるわけにはいかなかった。左腕は手首まで黒い亀裂に覆われ、強く握ろうとするたび痺れが肘へ走る。その不自由さが、体力を容赦なく削っていく。


フィンを先頭に、城壁沿いの獣道を走った。十五分ほどで、街道から外れた農村へ辿り着く。

数十軒の木造家屋が身を寄せ合うように建ち並ぶ、城外の東の村だ。広場では、農作業を終えた村人たちが集まり、火を囲んで夕食の炊き出しの準備をしている。

俺は村の入り口の木陰で立ち止まり、視界に張り付いたままの黒い伝票を睨んだ。


【発生地点:城外・東の村】

【災害種別:水源汚染】

【想定死者:六十三名】

【発症まで:十四分】


数字の下に、黒い線で描かれた『災厄の経路』が浮かび上がる。

俺は広場を見渡し、状況を三点に分解して確認した。


一点目。広場の中央にある石造りの井戸。ただの穴ではない。側面にはめ込まれた水晶のような石が微かに発光している。地下水を汲み上げ、魔法で濾過する『魔導浄水塔』だ。

二点目。浄水用の魔力石の端に入った、肉眼なら見落とすほどのひび割れ。災厄を示す黒い線がそこへ集中し、炊き出しで汲み上げ量が増えるたび割れ目を広げている。昼まで無事だった設備が、夕食の直前に限界へ達したらしい。水源そのものではなく、濾過器の破損による局所的な毒素の混入だ。

三点目。ひび割れを抜けた黒い線が、村の男たちが運ぶ木桶の中を経由し、広場の中心で煮立っている巨大なスープ鍋へと真っ直ぐに繋がっていること。


俺は木陰を飛び出した。

広場の中央へ駆け寄り、井戸から木桶を引き上げたばかりの若い男の腕を掴む。

「おい、何をする!」

男が声を荒らげるより早く、俺は木桶を奪い取り、中身を石畳の上へ乱暴にぶちまけた。

水しぶきが上がり、周囲の村人たちが一斉に作業の手を止める。


「その井戸の設備は壊れている。水を使うな」

息を切らしながら短く告げた。

しかし、男は地面に吸い込まれていく水と、俺の顔を交互に見比べ、大きく後ずさった。

「お前……その顔。今朝、広場の天告鏡に映っていた……!」

男の叫び声が、広場の空気を一変させた。


「転移者だ!」

「なんで手配犯がこんな村に!」

ざわめきは、瞬く間に恐慌へ変わった。

村人たちが次々と農具を手に取り、俺を取り囲む。その目にあるのは、賞金首を見つけた喜悦ではない。歩く災害そのものが自分たちの生活圏に入り込んできたことに対する、純粋な恐怖だ。


「違う、俺は井戸の――」

「黙れ! 転移者が井戸に呪いをかけようとしたぞ!」

俺の言葉は、村人たちの恐怖にかき消された。

彼らの視点に立てば無理もない。教会の放送は『転移者の周囲では災厄が起きる』と断言している。そこに手配犯が現れ、飲み水を地面へ叩きつけたのだ。警告ではなく、テロ行為の現行犯にしか見えない。


三人の男が、手に持った鍬や棒を突き出しながら距離を詰めてくる。

俺に戦う術はない。痺れる左腕を庇いながら後ずさるが、背後から別の男に膝裏を蹴られた。

石畳に崩れ落ちる。抵抗する間もなく、数人がかりで両腕をねじ上げられ、地面に押さえつけられた。

「縛れ! 騎士団が来るまで逃がすな!」

麻縄が持ち出され、俺の身体が容赦なく引き起こされる。

広場の端にある、家畜を繋ぐための太い丸太の柵。そこへ背中を押し付けられ、胴体と腕を幾重にも縛り上げられた。

縄が皮膚に食い込む。痺れた左腕では、圧迫される感覚さえ鈍かった。


「おのれ、化け物め。我々の村を滅ぼす気か」

村のまとめ役らしき白髪の老人が、憎悪と怯えの混じった目で俺を睨みつける。


「配膳を止めろ。味見をした人間を鍋から離せ。浄水石の裏を見れば、黒い液が漏れている」


縄に体重を預けたまま、見えている順に指示を飛ばした。


「備蓄の水があるなら、井戸水と混ぜるな。空の樽を一本、排水溝の脇へ置け。鍋を倒すなら、そちら側だ」


椀を手にした女が動きを止めた。鍋の脇で味を見ていた母子と二人の老人も、互いの顔を見る。


「聞くな!」

白髪の老人が一喝した。

「井戸へ呪いをかけた張本人だ。誰か、走りの速い者は西区の警備隊へ通報しろ。他の者は炊き出しを急げ」


若い男が一人、街の方向へ走り出す。

女は迷った末、椀を鍋の脇へ戻した。再び井戸から水が汲み上げられ、野菜の煮立つ鍋へ注がれていく。


声だけでは止められない。

それでも、使える物と位置は確認できた。三本の鉄脚に載った大鍋。火の脇の長柄。鍋の片側を走る排水溝。右手さえ自由になれば、中身を人のいない側へ捨てられる。


広場の入り口に近い荷車の陰で、フィンが顔を青ざめさせていた。飛び出しかけた少年へ首を横に振り、右手の縄と長柄へ視線を送る。

今ではない。動くなら、配膳が始まる直前だ。


見張りの男が棒の先で俺の腹を突いた。

「黙っていろ。お前の呪いなど通じない」


俺は息を整え、鍋と伝票だけを見た。


視界の端で、黒い伝票の表示が更新された。

経路の表示が消え、最も重要な数字だけが、赤黒い文字で強調される。


【発症まで:三分】


三分。

大鍋のスープが完成し、村人たちの胃の腑に収まるまでの時間。

あるいは、毒素が致死量に達し、連鎖的に六十三名が血を吐いて倒れるまでの時間。


麻縄の結び目は固い。力では抜け出せない。

だが、鍋を止める手順はできている。足りないのは、右手を自由にする数秒だけだ。

タイムリミットが、無慈悲に秒を刻み始めた。

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