第32話 転移者なら、反対側へ行った
渡り鳥亭の地下倉庫は、前夜に隠れた点検穴より広かった。
酒樽を並べる石室の奥に、古い荷揚げ用の通路が口を開けている。首都へ食料を運んでいた地下道だという。
マーラは俺たちを最奥の空樽へ押し込み、蓋を閉めた。
「息子は」
蓋が閉じる寸前に尋ねた。
「夜のうちに妹夫婦の荷馬車へ乗せた。西へ出たよ」
「教会は」
「あの子がまだ詰所にいると思ってる」
マーラの顔から恐怖が消えたわけではない。
それでも蓋を閉じる手は止まらなかった。
一階の扉が叩かれた。
「監察部だ!」
昨日と同じ声ではない。
人数も多い。鎧の音が床板を震わせる。
「朝鐘告示により、この宿の周辺で転移者の位置が確定した。昨日、お前が通報した男だ」
「ええ。覚えてますよ」
「今朝、見ていないか」
樽の中で、俺は息を浅くした。
横の樽にはフィンがいる。互いの姿は見えない。
マーラが答えた。
「転移者なら、夜明け前に北へ行ったよ」
騎士の足が止まる。
「北?」
「うちの裏で水を盗んでた。声をかけたら、北門の方へ走っていった」
「昨日は地下へ逃がしただろう」
「昨日は息子を取られてた。今日は違う」
平手が鳴った。
何かが床へ倒れる音。
フィンの樽が小さく軋んだ。
俺は板越しに一度だけ指で叩く。動くな。
「宿を調べろ!」
靴音が散った。
酒瓶が割れ、机が引き倒される。地下への扉も開いた。
松明の光が樽の隙間から差し込む。
騎士がすぐ横を通った。
「空樽ばかりです」
「奥の通路は」
「崩れています。人は通れません」
マーラは、昨夜のうちに通路の手前だけを石と空箱で塞いでいた。
奥まで確かめるには、半刻以上かかる。
一階から別の騎士が叫んだ。
「北門より緊急報告! 転移者らしき男を見た者がいると!」
「ここは後だ。北へ回るぞ!」
足音が遠ざかった。
宿の正面扉が閉まっても、マーラはすぐには地下へ来なかった。
十分ほど経ってから、樽の蓋が持ち上がる。
額を切り、頬を腫らしたマーラが立っていた。
「借りを返した、なんて言わないよ」
「俺を売ったことか」
「そうだ。昨日、あんたたちがどこにいるか、全部喋った」
「知ってる」
俺は樽から降りた。
足元が揺れ、マーラが反射的に腕を出す。だが黒い亀裂を見て、途中で止めた。
「息子を選んだ。それでいい」
「よくないから、今度は嘘をついたんだよ」
マーラは床へ視線を落とした。
「怖いさ。今だって、あの子の荷馬車が止められていないか考えてる。それでも、一度言う通りにしたら、次も、その次も人質にされる」
フィンが別の樽から這い出した。
「さっきの北門の報告、あんたの仲間か」
「違うよ。私は宿から一歩も出てない」
店の壁に掛けられた小型天告鏡が、甲高い音を出した。
新しい目撃情報が映る。
『北門外、転移者を確認』
その表示が消える前に、次が重なった。
『西の川沿いにて確認』
『東山の旧道にて確認』
『ルーデン渓谷南岸にて確認』
フィンが鏡へ駆け寄った。
「全部、違う送信所だ」
映像が切り替わる。
東の村の老女が、天告鏡の前で北を指差していた。
『あの男なら、夜中に西へ行ったよ。間違いないね』
言葉と指先の方向が合っていない。
次はルーデン渓谷の橋番だった。
『壊れた橋を歩いて戻ってきた。今は南岸だ』
通行不能になった橋を背に、平然と言う。
カルム鉱山からは、救護所で顔を見た坑夫が三人、鏡へ並んだ。
『第三坑道にいるぞ!』
『いや、第五層だ!』
『昨日から鉱石を掘ってる!』
鉱山は首都から何日も離れている。
それでも報告は止まらない。
魔導暖房の火災を消した街。
毒水を止めた村。
避難民の野営地。
市場の南通り。
俺が通った場所すべてから、俺を見たという知らせが上がる。
市場の映像には、最初に飛来物から庇った老人がいた。
『朝からここで荷車を直してもらってる。腕の黒い男なら、ずっと隣にいるぞ』
画面の外から警備兵が「誰もいない」と怒鳴る。
老人は耳へ手を当て、聞こえないふりをした。
野営地では、救援物資を受け取った女たちが、別々の時刻と道を証言している。
代官ベルクの元私兵まで「旧街道で見た」と報告し、追跡隊へ地図を突きつけていた。
どの嘘も精巧ではない。
少し調べれば崩れる。
だが、調べるべき嘘が何百、何千と同時に届けば、追跡側は一つずつ潰すしかなくなる。
天告鏡の地図へ、目撃地点を示す赤い印が増えていった。
北。南。東。西。
首都から遠く離れた国境付近にまで、同じ時刻の印がつく。
『位置照合不能』
地図の中央に文字が浮かんだ。
『追跡経路を再計算します』
外の街道を走っていた馬蹄が、次々と別方向へ散っていく。
追跡網が、自分たちの報告で崩れていた。
マーラが小型鏡の送信板へ手を置いた。
『渡り鳥亭東支店より追加報告。転移者は北へ向かった。同行者なし』
彼女自身の魔力印で、同じ嘘をもう一度送る。
昨日、俺の居場所を確定させた本物の報告と並び、今度の虚偽情報も正式記録として受理された。
「これで私も、言い間違いじゃ済まないね」
マーラは震える手を前掛けで拭った。
「誰が呼びかけたんだ」
俺が尋ねると、フィンは首を振った。
「そんな時間はなかった。たぶん、朝鐘を見た奴らが勝手にやってる」
確かめる方法はない。
だが、鏡の中の顔は知っている。
最初は、俺を見れば誰もが売った。
今は、俺がどこにいるか知らない人間まで、別の場所にいると嘘をついている。
マーラが地下通路を塞いでいた空箱をどけた。
「この道は首都の穀物倉へ出る。今なら追手は北だ」
俺は彼女へ頭を下げた。
「ありがとう」
「礼は、戻ってからにしな」
フィンが先に通路へ入る。
俺も続いた。
背後でマーラが空箱を積み直す音がする。
国中から流れ続ける嘘に隠され、俺たちは中央塔へ向かって走り出した。




