第31話 最後の朝鐘
大均衡当日の夜明け。
首都を囲む七つの鐘楼が、一斉に鳴った。
空気ではなく、骨を揺らす音だった。
廃集配所の窓から見える天告鏡が白く染まり、俺の顔が映し出される。
『最終朝鐘告示』
『転移者、久瀬直人』
『積載災厄の回収に伴い、地域推定を解除』
『現在地――グラナ街道、第七貨物集配所』
これまでのような広い地域ではない。
建物の名前まで、正確に出ている。
「位置照合に、マーラの密告記録を使ってる」
フィンが窓から離れた。
街道の両側で、宿の扉が閉じていく。遠くでは騎士の警笛が鳴り、複数の馬蹄がこちらへ向きを変えた。
俺の視界にも、別の告示が現れる。
【大均衡・本同期開始】
中央塔から伸びた黒い経路が、胸の中心へ流れ込んだ。
立っていられない。
右手を机へついた瞬間、卓上の油灯が倒れた。
フィンが毛布を被せ、火を潰す。
「おっさん!」
「大丈夫だ」
「大丈夫な奴は、自分で立て」
息を整え、壁から背を離した。
黒い亀裂は首筋まで達している。視界の端が暗く欠け、フィンの顔が一瞬、別の場所に二重に見えた。
【積載率:87%】
八十六パーセントを超えた。
意識を失えば、周囲へ災厄が漏れる。
昨夜、中央塔へ連れていかれたアデルから合図はない。
放送回線も暗いままだ。
捕らえられたのか、まだ機会を待っているのか、外からは判断できない。
「中央塔の主回線は?」
「切れてない。誰かが内側から保守鍵を入れた形跡はある」
フィンはそう答え、工具袋を強く締めた。
アデルはまだ動いている。
そう判断して、こちらも止まらない。
「追手は三方向」
フィンが窓枠の下から街道を確認する。
「東は騎兵。南は賞金稼ぎ。西の用水路にも教会の札が貼られてる。北へ抜ければ首都とは逆だ」
いつもの俺なら、地図を奪い取っていた。
人数、距離、荷の重さ。自分で確認し、自分で順番を決める。
だが、視界は揺れ、思考がところどころ抜け落ちる。
俺の判断が一つ狂えば、フィンまで巻き込む。
「お前なら、どこへ行く」
フィンが振り返った。
「俺に決めろって?」
「そうだ。俺が見落としてるものを、お前は見てる」
フィンは驚いた顔をした後、羊皮紙を床へ広げた。
指が街道を往復する。
「……渡り鳥亭へ戻る」
「マーラのところか」
「一度俺たちを売った場所なら、教会は監視を薄くする。宿の地下には、首都へ荷を送る古い貯蔵路がある。昨日は途中までしか使わなかった」
合理的だ。
同時に、マーラがもう一度売る可能性もある。
「決めた」
俺は地図を畳み、フィンへ返した。
「案内しろ」
「本当にいいのかよ」
「判断を任せると言った」
フィンは背嚢を担ぎ、口元を引き締めた。
集配所の裏には、車輪修理用の細い搬出口があった。
追手が正面を固める前に、俺たちは空の樽を積んだ手押し車へ潜り込む。
押すのはフィンだ。
「重いぞ、おっさん」
「あとで二倍押す」
「帰ったらな」
その言葉に、昨日の約束が重なった。
手押し車が搬出口を出る。
街道には、朝市へ向かう荷車が何台も動き始めていた。天告鏡を見た御者たちは互いの顔を窺っている。
追跡騎士が一台ずつ荷を改めていた。
「第七集配所から出た者はいないか!」
フィンの足が止まりかける。
樽の隙間から、黒い経路が見えた。
検問の馬が、俺から漏れた災厄に触れて前脚を上げる。手綱が御者の腕から抜け、横の荷車へ衝突する線。
「右へ二歩。車を止めろ」
小声で告げる。
フィンが従った直後、馬が嘶いた。
だが、手押し車が空けた場所へ御者が飛び降り、手綱を取り直す。衝突は起きない。
騎士の視線が馬へ集まった。
「今だ」
フィンが再び押し始める。
検問を抜け、宿の並ぶ脇道へ入った。
最短なら、二つ先の大通りを横切る。
俺の頭にはそう見えた。
「次を左だ」
「右へ行く」
「右は遠回りだ」
「左の屋根を見ろ」
樽の隙間から見上げる。
屋根の煙突に白い布が二枚。追跡隊が路地封鎖を知らせる合図だ。
さっきまで、俺の視界には入っていなかった。
「悪い。右だ」
「任せたなら、途中で取り返すなよ」
フィンが手押し車を右へ曲げた。
狭い洗濯路地へ入る。干されたシーツが樽の上を撫で、外からの視線を切った。
前方から、賞金稼ぎらしい三人組が来た。
「その車、止まれ」
フィンは返事をせず、共同井戸の列へ車を寄せる。
水汲みを待っていた女たちが手押し車を囲んだ。
「朝の配達だよ。空樽を返しに行くんだ」
フィンの声は子どもらしく不満げで、急いでいるようには聞こえない。
賞金稼ぎが樽へ手を掛けた。
その時、路地の反対側にある天告鏡が警報を出した。
『転移者、北街道に出現との報告』
三人は顔を見合わせる。
一万ゴルドの賞金を逃すまいと、樽を確かめず北へ走った。
まだ全国的な偽証が始まる前だ。
誰が送った報告かは分からない。
「助かったな」
「偶然じゃないかもしれない」
フィンは速度を変えず、路地を抜けた。
俺は樽の中で呼吸を数えた。
一つ数えるたび、別の音が混ざる。鐘。馬蹄。中央塔の歯車。
時々、自分がどちらへ運ばれているのかさえ分からなくなる。
「フィン」
「いる」
「次の曲がり角は」
「俺が決める。あんたは黙って乗ってろ」
声の位置を頼りに目を閉じた。
任せるというのは、何もしないことではない。
自分に見えない部分を、見える者へ渡すことだ。
手押し車が三度曲がり、傾斜を下った。
やがて止まる。
樽の蓋が開いた。
朝の薄い光の向こうに、渡り鳥亭の裏口がある。
そこにマーラが立っていた。
俺とフィンを見ても、驚いた声は上げない。
「来ると思ってたよ」
マーラは裏口を大きく開けた。
「早く入りな。今度は、地下を最後まで開けてある」




