第30話 あなたを一人で死なせない
マーラの宿を出てから三日。
俺たちは用水路、廃暖房管、夜間の荷馬車をつなぎ、首都外縁まで進んだ。
昼は追手を避けて眠り、日が落ちてから移動する。過去に救った商人や坑夫が、次の隠れ場所まで食料と経路を渡してくれた。
首都外縁の廃集配所には、荷台の外された古い馬車が何台も並んでいた。
俺たちはその陰へ身を伏せ、夜明け前の中央塔を見た。
七層の外壁に囲まれた白い塔。その頂上から、黒い線が空を裂くように俺へ伸びている。
アデルが投降して内部へ入る。
フィンが父親の保守記録を使い、外部の中継鏡から放送回線を奪う。
俺は二人が作った隙に中央核へ到達し、大均衡を止める。
役割は決まった。
「教会は、私を処刑する前に放送へ出すはずです」
アデルが中央塔の告示予定表を指した。
「元処刑聖女に共同受領を否定させれば、実験記録ごと潰せる。ネルガなら、その機会を逃しません」
「予定通り放送室へ入れなかった時は」
「主回線を三度、短く明滅させます。フィンは記録を流さず退避して」
「あんたはどうする」
「内部から別の道を探します」
退避するとは言わなかった。
俺が口を開く前に、アデルが釘を刺す。
「あなたも同じです。中央核へ入れなければ一度退く。勝手に最終手段へ切り替えないでください」
「まだ何も言ってない」
「顔に出ています」
フィンが横で頷いた。
二対一だった。
「記録は三組です」
アデルが机代わりの木箱へ並べる。
共同受領実験の原本。マーラへの脅迫状。ネルガの編集命令へつながる中継塔の写し。
一組はアデルの法衣へ縫い込み、一組はフィンの背嚢。残りは空の穀物箱へ隠した。
「親父の番号なら、南門の保守盤から中央回線へ入れる」
フィンが羊皮紙を指で叩く。
「ただし、内側で誰かが主回線を開かないと、映像までは流せない」
「それは私が行います」
二人の声を聞きながら、俺は水筒を腰へ結び、短い縄を右肩へ掛けた。
戻りに必要な食料は、フィンの背嚢へ移してある。
地図も、断界井の保守札もだ。
「おっさん」
フィンが俺の足元を見ていた。
「なんで、あんたの荷だけそんなに軽いんだ」
「中央塔の中じゃ走れた方がいい」
「帰りの分まで俺に持たせたのは?」
答える前に、アデルが立ち上がった。
彼女は俺の荷を一つずつ見た。水。縄。止血布。中央塔へ入るまでに必要なものだけ。
「直人。あなたは戻るつもりがありませんね」
声は低かった。
「大均衡が始まれば、俺へ国内の災厄が集まる。中央核まで運べば、二人は外から共同受領を起動できる」
「あなた自身は」
「俺一人で済むなら、その方が早い」
アデルの手が動いた。
頬を打たれると思った。
だが、彼女が掴んだのは俺の作業着の胸元だった。
「また、それですか」
「事実を言ってる」
「いいえ。あなたは事実の一部だけを示し、私たちの返答を聞く前に割り振りを終えた」
指先が震えている。
怒りだけではないように見えたが、俺には名前を付けられなかった。
「市場でも、鉱山でも、あなたは荷の中身を見せて人を動かした。なのに自分の命だけは、重さを隠したまま勝手に運び出すのですか」
「お前とフィンを死なせたくない」
「私も同じです」
即答だった。
「あなたは他人を助ける時、その人の意思を聞かないことがある。けれど、私があなたを助ける意思まで、あなたの都合で消さないでください」
アデルは胸元から手を離さない。
「私から、あなたを助ける選択を奪わないで」
フィンが無言で背嚢を下ろした。
俺の前へ、水筒をもう一本置く。
「俺だって一人で帰る気はねえぞ」
二人の視線から逃げる場所はなかった。
誰かがやらなければ回らない。だから俺がやる。
そう決めれば、前の世界では誰も止めなかった。
ここには、止める人間が二人いる。
「……悪かった」
喉につかえた言葉を押し出した。
「計画を変える。中央核には全員で辿り着く。無理なら、退く判断はフィンに任せる。俺が一人で残る時も、二人へ先に言う」
「許可を求めてください」
「そこまでか」
「そこまでです」
アデルの返事に、フィンが短く笑った。
笑い声が消えた時、塔から伸びる黒い線が太くなった。
地面の下で巨大な歯車が回り始める。
【大均衡・予備同期開始】
身体の内側へ、冷たい泥を流し込まれたような感覚。
膝が落ちる。アデルとフィンが左右から肩を支えた。
【積載率:73%】
足元で車輪止めがひとりでに外れ、古い馬車がゆっくりと動き出す。
フィンが石を噛ませ、アデルが銀槍の柄で車体を押し返した。
七十一パーセントを超えた頃から、俺の周囲ではこうした小事故が増えている。
「もう始まってる」
「だからこそ、三人で行きます」
アデルが俺を立たせた。
顔が近い。
何かを言おうとした彼女の唇が止まり、視線が一度だけ俺の口元へ落ちた。
「生きて戻る」
俺が先に言った。
「約束しますか」
「約束する。お前も戻れ」
「はい」
アデルの指が頬へ触れた。
次の瞬間、柔らかな熱が唇へ重なった。
短い。息を吸う間もないほど短い口づけだった。
離れたアデルの耳が赤い。
それでも声は震えなかった。
「約束を破れば、今度こそ私があなたを処刑します」
「それは困る。守るよ」
「俺、見てたんだけど」
フィンが呆れた声を出した。
「忘れろ」
「無理だろ」
俺も平静ではなかった。
唇に残った熱より、アデルが戻ると約束したことの方が重い。
これまでの俺なら、その約束さえ計画上の保証として扱っただろう。
今は違う。
成功に必要だからではなく、彼女に戻ってきてほしい。
「アデル」
「はい」
「放送が終わっても、そこで仕事を完了にするな」
「あなたも」
互いに頷いた。
夜明け前の鐘が、一度だけ鳴った。
アデルは白い法衣を整え、脅迫状と実験記録を胸元へ収める。
銀槍を俺へ差し出そうとして、途中で止めた。
「これは持っていきます。処刑聖女が戻ったと信じさせるために」
彼女は一人で街道へ出た。
ほどなく、中央塔の監視騎士が四方から現れる。
「反逆聖女アデル・ヴァレリスです」
アデルは銀槍を石畳へ置き、両手を見せた。
「転移者の現在地と、共同受領に関する証拠を持って投降します。大衡司へ直接、報告させてください」
騎士たちが彼女を囲む。
白い背中が中央塔へ連れていかれるまで、俺とフィンは馬車の陰から動かなかった。
「帰ってくるよな」
フィンの問いに、俺は水筒を二本、腰へ結び直した。
「帰ってこさせる。俺たちも行くぞ」




