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第29話 助けた人間にも、俺を売る自由がある

共同受領の実験記録を三つの天告鏡へ複製し終えた時には、日が沈んでいた。

俺たちは地方中継塔を離れ、グラナ街道を首都側へ進んだ。

百人へ分けたことで、積載率は五十七パーセントまで下がっている。それでも左腕から肩へ広がった黒い亀裂は消えず、指先の感覚も戻らない。


街道沿いに建つ二階建ての宿が見えてきた。

軒先の看板には《渡り鳥亭・東支店》とある。


「火事の街で、俺たちに地下水路を貸した人の宿です」


アデルが看板を見上げた。

魔導暖房の暴走で市街が燃えた時、宿の客を避難させ、消火用の水桶を集めてくれた女主人。マーラは俺たちの顔を見ると、すぐに裏口を開けた。


「話は中で。表から見られたら、息子まで連れていかれる」


声が硬い。

店内に客はいなかった。椅子は机の上へ伏せられ、厨房の火も落ちている。

火災の夜には、避難民で埋まっていた食堂だ。

あの時、マーラの息子は水桶を運ぶ列の一番後ろにいた。泣きながら、それでも母親に言われた場所まで一度も桶を落とさなかった。


壁の天告鏡には、共同受領実験を「呪いの集団感染」とするネルガの告示が映っている。

マーラは鏡へ布を掛けた。


「実験に参加した客が二人いた。微熱だけで、朝には歩いて帰ったよ。だけど鏡じゃ、死にかけたみたいに言ってる」

「原記録は残っています」


アデルが答えると、マーラは一度だけ頷いた。

それ以上、安心したとは言わなかった。


俺は三点を見た。

玄関脇に泥のついた軍靴が二足。壁から外された家族の肖像。マーラの右手に食い込む、黒い封蝋の紙片。


「教会が来たのか」


マーラの肩が揺れた。


「……今朝ね。あんたたちを泊めたら、息子を協力者として裁くって」

「息子はどこだ」

「西の詰所。保護だと言って連れていかれたよ」


保護という言葉に、アデルの口元が固くなる。

マーラは奥の食料庫を指した。


「床下に荷の点検穴がある。夜が明けるまでは隠せる」


信じる根拠はあった。疑う根拠も同じだけあった。

俺たちは床板の下へ降りた。


土壁に囲まれた狭い空間だった。干し肉の木箱と空樽の間に三人で身を寄せる。

頭上を板で塞いでから、十分も経たなかった。


馬の嘶き。

続いて、宿の正面扉を叩く音が三度響いた。


「均衡教会監察部だ。開けろ」


マーラが扉を開ける音がした。

重い靴が何人分も店内へ入り、椅子を蹴る。


「転移者は来たか」

「……来ました」


フィンが俺の袖を掴んだ。

頭上で、短い沈黙があった。


「どこだ」

「食料庫の床下です」


正確な答えだった。

アデルが銀槍へ手を伸ばす。俺は右手で止めた。


「息子を返す約束は」

「標的を確認した後だ」

「約束したね」

「お前が条件を付けられる立場か」


床板の向こうで、紙が破れる音がした。

監察官の笑い声。直後、食料庫へ向かって足音が近づいてくる。


「奥だ!」


フィンが床下の壁を指した。

積み上げられた空樽の裏に、細い排気口がある。子どもなら通れるが、大人の肩幅では無理だ。


「樽をどけろ。支柱は残せ」


三人で樽を横へ送る。

排気口の周囲は、焼成の甘い煉瓦だった。アデルが銀槍の石突きを目地へ差し込み、音を抑えながら二枚、三枚と外す。

俺は片腕で煉瓦を受け取り、フィンへ回した。


頭上の閂が外される。


「先にフィン。次に直人。私が最後です」


「お前が先だ」と言いかけたが、アデルの目は排気口と床扉を交互に測っていた。ここで順番を争う時間はない。


フィンが潜る。俺も右肩から身体を押し込んだ。

背後で床板が持ち上がる音と、銀槍が何かを弾く硬音が重なった。


外へ転がり出る。

排気口は宿裏の薪置き場へ通じていた。

アデルも続き、最後の煉瓦を内側へ蹴り戻す。


「走れ!」


街道ではなく、宿の裏を流れる用水路へ降りた。

水は膝まである。足跡を消しながら暗渠へ入る。


背後で警笛が鳴った。

その瞬間、首都の方角から伸びてきた黒い線が、俺の胸へ突き刺さった。


【強制同期・位置照合完了】


肺が潰れたように息が詰まる。

黒い亀裂が鎖骨まで跳ね上がり、用水路の壁へ手をついた。


【積載率:63%】


「密告を照合に使ったのです」


アデルの《因果視》が、首都へ続く濁りを追っている。


「マーラは選んだ。それだけだ」


俺が言うと、フィンが振り返った。


「あんたを売る方をか」

「息子を生かす方をだ。俺を売った事実は消えない。息子を人質に取った事実もな」


用水路の曲がり角で、アデルが足を止めた。

手には、黒い封蝋の紙が握られている。宿を出る直前、床下へ落ちてきたものを拾っていたらしい。


《協力を拒めば、被保護者を転移者共犯として処断する》


教会の印と、監察官の署名がある。


「脅迫の原本です。マーラはこれを、床下へ落としました」


完全に従うだけなら、残す必要のない証拠だった。


フィンは紙の端を見つめたまま、何も言わなかった。責める言葉も、許す言葉も、今はどちらもマーラの息子を連れ戻さない。


アデルは紙を法衣の内側へしまい、首都の光を見た。


「私が投降します」

「何を言ってる」

「処刑聖女だった私なら、中央塔の内部まで連行される。この原本と実験記録を持ち込み、放送回線へ近づきます」


フィンが用水路の壁へ父親の地図を広げた。


「中央塔の外から回線を開ける保守盤は、南門と東門に一つずつある。でも主回線の鍵は塔の中だ」

「私が内側の鍵を開きます。フィンは外から記録を流して」

「俺は」

「大均衡の流れを中央核まで運ぶ。あなたにしかできません」


誰か一人が欠ければ成立しない。

アデルの案は、自分だけを犠牲にするものではなかった。

それでも、投降した後に彼女が無事でいられる保証はない。


追手の灯りが用水路の入口へ集まり始めていた。

アデルは俺から目を逸らさなかった。


「直人。中央塔へ入る道を、外と内から同時に作りましょう」

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