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第22話 聖女の故郷を滅ぼした記録

旧均衡観測所は、街道から外れた崖の中腹に埋まっていた。

石壁には蔦が絡み、扉を覆う教会の紋章も半ば欠けている。ガレスが残した監察票がなければ、ただの廃墟として通り過ぎていただろう。


「封鎖は二重です」

アデルが扉の前へ膝をついた。

「外側は地方教会の鍵。内側は処刑聖女以上の権限が必要になります」

「今でも使えるのか」

「剥奪の告示と、権限の抹消は別の処理です。教会が先に後者まで済ませていなければ」


彼女は掌を石板へ当てた。

白い光が指の間を走り、最初の錠が外れる。続けて、鈍い歯車の音が壁の奥で鳴った。

扉は開いた。


「ずいぶん不用心だな」

フィンが薄暗い室内を覗き込み、鼻を鳴らした。

「聖女が教会から逃げるなんて、考えてなかったんだろ」

「それについては反論できません」


アデルの返答は平坦だった。だが、扉から手を離すまでに、一拍だけ間があった。


観測所の中には、天告鏡より小さな記録鏡が棚ごとに並んでいた。

床には埃が積もっている。ところが、奥へ続く一筋だけは薄い。最近まで誰かが出入りしていた跡だ。


俺たちは足跡を追った。

最奥の保管室で、アデルの足が止まる。


棚の札に刻まれていた地名は、俺には読めなかった。

だが、彼女の唇がその名を小さく形作った。


「エルメダ」


「故郷か」

「はい。十六年前、転移者が怪物化し、住民の七割が死亡したと記録されています」


アデルは鍵穴へ銀槍の石突きを当てた。短い光の後、棚の封印が解ける。

中には拳ほどの記録水晶が三つと、黒い革表紙の記録簿が残されていた。


棚の下段には、公開済みを示す白札と、閲覧禁止を示す黒札が重なっていた。

白札の水晶は一つ。残る二つには黒い封蝋が残っている。

同じ事件の記録を、見せるものと隠すものに最初から分けていた。


黒札の記録には、閲覧者の名を残す仕組みまで切られていた。

保存するためではない。消さずに閉じ込め、存在そのものを知られないようにした保管だ。


フィンが保管室の扉へ細い針金を挟み、外から開けられた時に落ちるよう小石を置いた。

俺は卓上鏡の背面と、水晶を取り外すための留め具を確認する。


「途中で誰か来たら、これごと持ち出す。原本をここへ置いたまま逃げない」

「持ち出せるのは二つが限界だぜ」

「だから、まず中身を確認する」


「公式に公開された映像から見る」

俺が言うと、アデルは無言で一つ目の水晶を卓上の鏡台へ置いた。


曇った鏡面に、燃える街が映し出された。

黒い亀裂に全身を覆われた男が、広場の中央で叫んでいる。男が腕を振るたびに屋根が崩れ、炎が通りを走った。

逃げる人々へ黒い靄が伸びる。

触れられた者が倒れる。


映像の端に、白い服を着た小さな少女がいた。

倒れた大人の腕を引き、何度も振り返っている。


鏡の前に立つアデルの指が、銀槍の柄へ食い込んだ。


「あれが私です」


それだけ言い、彼女は映像を止めなかった。


男の身体が膨れ、輪郭が獣のように崩れていく。


映像の少女は、倒れた大人の手を最後まで放さなかった。救援兵が駆け寄り、少女を抱え上げる。白い光が画面を覆ったのは、その直後だった。


記録はそこで途切れた。


「教会は、あの転移者が力に溺れたと発表しました」

アデルは鏡から目を離さないまま続けた。

「父と母は広場で死亡。私は救援部隊に保護され、教会へ入りました。転移者が善人であっても、怪物になる前に殺す。それが同じ被害を防ぐ唯一の方法だと教えられました」


今のアデルは、少女が運ばれる場面でも瞬きをしなかった。

ただ、銀槍を握る指だけが白くなっていた。


俺は慰めの言葉を探さなかった。

何を言っても、鏡の中で倒れた人間は戻らない。


次の水晶を取ろうと一歩離れた時、外套の袖が引かれた。

アデルの左手が布を掴んでいる。

彼女は自分の指に気づき、一度は離しかけた。それでも、手を下ろさなかった。


「……次へ進む前に、少しだけ、ここにいてください」


任務のためなら、俺はもう同じ部屋にいる。

それ以上の理由を、彼女は言わなかった。


「分かった」


俺は隣へ戻った。

記録鏡から最後の白い光が消えるまで、アデルの指は袖に残っていた。


「次だ」


アデルは頷き、二つ目の水晶を置いた。


映像は同じ日の、別の観測塔から始まった。

画面の奥にエルメダの時計塔が見える。長針は九を、短針は一を指している。

まだ街に火は出ていない。


広場の男は両膝をつき、教会の騎士たちへ何かを訴えていた。

音声はない。

その頭上に、天秤塔から細い光が降りた。


一筋。

二筋。

三筋。


光が身体へ入るたび、男の背中が跳ねる。黒い亀裂が首から頬へ広がり、地面を掻く指から血が出た。


俺の左腕から漏れかけた黒い靄と同じものが、男の肩から伸びている。

ただし向きが違う。

公式映像では男から住民へ流れていた。今の映像では、塔から男へ押し込まれている。


「止めろ」

俺は鏡へ近づいた。

「今のところを戻してくれ」


アデルが水晶を操作する。

光が注がれる直前、画面の隅を白い法衣の人物が横切った。その手には、記録用らしい小型の鏡がある。


「転移者が勝手に災厄を集めているようには見えない」

「私にも、塔から男へ因果が移動しているように見えます」


アデルの声は低かった。


三つ目の水晶は音声記録だった。

砂嵐のような雑音の奥で、複数の男が数字を読み上げている。


『注入率、六十二』

『受領器の拒絶を確認』

『拘束を継続。注入第七段階へ移行する』


フィンが卓上へ父親の保守記録を広げた。

「この記号だ。親父の紙にも同じのがある。塔から何かを流す時の弁番号だ」


公式映像では、転移者が自分から力を求めたことになっている。

だが、その前に教会は男を拘束し、天秤塔から何かを注ぎ込んでいた。


俺は一つ目の映像をもう一度再生した。

燃える街。怪物化した男。逃げる住民。

画面の下に刻まれた記録時刻は、午後一時四十分。


背景の時計塔は、二時十五分を示していた。


「時刻が合わない」

俺が指差すと、アデルが記録簿を開いた。

「音声と映像を、別の時刻から切り出している可能性があります」


彼女はページをめくり、途中で手を止めた。


「直人。これを」


紙面には、俺には読めない文章と、一人の名が記されていた。

アデルが日付を二つ指で押さえる。


「転移者本人の自白書です。本人の署名と教会の認証印がある」

「何が問題だ」


アデルは顔を上げた。


「署名された日は、彼の公式死亡日の三日後です」


記録簿の死亡確認欄にも、同じ教会印があった。

死亡日を後から動かしたのではない。

同じ組織が、男の死を確認した後で、男自身の自白を作っている。


アデルは自白書を記録鏡の横へ置き、死亡確認欄と同時に映した。

フィンが予備の水晶へ複写を始める。

一枚だけ持ち出せば、偽物を差し替えたと言われる。

日付、印、原本の保管場所を一つの映像に残して、初めて外へ持ち出せる証拠になる。

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