第21話 黒槍は、包囲網を一か所だけ開けた
追跡隊の角笛は、南門から一度だけ響いた。
続いて、統制された馬蹄の音が近づいてくる。
「渡り鳥亭へ来な」
マーラが息子の肩を抱いたまま、俺たちを手招きした。
「地下は主管が通ってる。駄目だ」
「馬小屋の飼料庫に、外から見えない荷下ろし口がある。あんたは今、走れる顔じゃないよ」
積載率四十四パーセント。
脚の感覚は薄く、立っているだけで視界が狭まる。追跡隊と正面から駆け比べられる状態ではない。
「借りは返すと言っただろ」
マーラは俺の返事を待たず、宿の裏へ歩き出した。
俺たちは馬小屋へ入り、干し草を積んだ壁の奥へ身を隠した。
ほどなく、金属の足音が庭を埋めた。
「転移者追跡隊だ。宿の者は全員、表へ出ろ」
聞き覚えのある低い声。
黒槍のガレスだ。
板壁の隙間から外を見る。
隻眼の隊長は、騎士を宿へ入れなかった。まず火消し隊長と暖房所の技師を庭へ呼び、泥のついた配管図を地面へ広げさせている。
「報奨金目当ての証言は分けろ。避難誘導を受けた者、設備に触れる前を見た者、破裂後を見た者。それぞれ別に聞け」
部下が三方向へ散る。
少なくとも、命を助けた借りだけで判断しているようには見えない。俺に有利な証言にも、不利な証言にも、同じ手順を当てていた。
「教会の告示では、転移者が設備へ触れた後に圧力が上がったとある」
「逆だ」
火消し隊長が即座に返す。
「奴が門を入る前から、主管の圧力計は赤だった。こいつを見ろ」
差し出された真鍮板には、針で時刻と圧力が刻まれていた。暖房所の自動記録らしい。
ガレスは板を受け取り、告示鏡の方角を見る。
「記録の写しは」
「二枚ある。一枚は告示局へ渡したが、放送には使われなかった」
「もう一枚を預かる」
彼は部下へ封印袋を持ってこさせた。
次に、破裂した排熱塔と、避難した住民を一人ずつ確認する。助けられた坑夫の時と同じだ。教義ではなく、現場に残った順番を拾っている。
「隊長」
若い騎士が通信鏡を抱えて近づいた。
「中央から再命令です。転移者、反逆聖女、協力者の少年を発見次第拘束。抵抗した場合は殺害を許可する、と」
「市内の避難は終わったか」
「は?」
「火災直後だ。住民を巻き込む包囲はしない。退避を先に確認しろ」
ガレスは命令書を畳み、外套へ入れた。
「北班は水路、東班は浴場、西班は城門を封鎖。南班は俺と宿場を調べる」
逃げ道が塞がれていく。
フィンが地図を開き、声を出さずに指を動かした。北は地下の蒸気で通れない。東の浴場は人が多すぎる。西門へは騎士が先回りする。
残る南は、ガレス自身がいる。
「ここで捕まれば、マーラまで共犯になる」
俺が囁くと、アデルが外の足音を数えた。
「私が出ます。ガレスは無関係な者を斬りません」
「あんた一人で出ても、三人分の包囲は解けない」
「では、どうします」
立ち上がる。
脚は動く。長くは持たないが、荷下ろし口から裏道へ出る程度なら走れる。
馬小屋の扉が開いた。
「出てこい」
ガレスは一人だった。
黒槍を持っているが、穂先は床へ向いている。
アデルが俺の前へ出た。
「ガレス。私は教会の命令書偽造と記録改竄の証拠を持っています」
「監察司祭を拘束したことも聞いた」
「ならば」
「お前たちを見逃す理由にはならん」
隻眼が俺の左腕へ向いた。
「その男が安全だという証明もない。現に、災厄は増えている」
「そうだな」
否定はできない。
「鉱山では、意識を失った時に漏れかけた」
アデルが俺を見る。
隠すなと、ガレスに言われる前に答えた。
「今は四十四パーセントだ。七十を超えれば、周囲へ漏れる可能性が上がる」
「なぜ自分に不利な数字を言う」
「片方を隠すなと言うつもりだったんだろ」
ガレスの隻眼が細くなる。
それ以上は問わなかった。
「だが、中央の告示が嘘である証拠も、今ここにある」
ガレスが懐から封印袋を出し、アデルへ投げた。
中には暖房所の圧力記録と、火消し隊長たちの署名が入っている。
「これは」
「証拠品だ。反逆者へ渡した覚えはない」
そう言いながら、彼は荷下ろし口の閂を黒槍で持ち上げた。
扉の向こうに、南の細い路地が見える。
「先ほど、南班はあなたと宿場を調べると」
「南班は火災現場の保全へ回した。倒壊しかけた建物へ部下を入れるほど、俺は愚かではない」
フィンが口を開きかける。
ガレスの視線が動き、少年の帽子を捉えた。
「聞き違えるな。俺は見逃してはいない」
「じゃあ、何をしてる」
「教会とお前たち、どちらがより危険かを調べる時間を作っている」
外で騎士が隊長を呼んだ。
ガレスは踵を返す。
「次に会う時までに、その腕が人を救った証拠と、人を殺す危険の両方を出せ。片方を隠せば、今度こそ捕らえる」
彼は庭へ戻り、部下へ命じた。
「宿場に異常なし。南は火災封鎖を継続する。北、東、西の包囲を狭めろ」
南だけが開いたままだ。
マーラが用意した荷車へ俺を乗せ、アデルが手綱を取る。フィンは荷下ろし口を閉め、隙間からマーラ親子へ頭を下げた。
俺たちは細い路地を南へ抜けた。
路地の先には、火消し隊が外した柵が横たわっていた。
荷車では通れない。俺とフィンが降り、片端ずつ持ち上げる。左手に力が入らず、フィンの側へ重さが寄った。
「無理すんな。せえので押すぞ」
「子どもに指示される日が続くな」
「役に立つ子どもだからな」
アデルも御者台から降り、三人で柵を路肩へ寄せた。
荷車を通した後、元の位置へ戻す。追手を止めるほどではないが、進路を選び直させる時間は稼げる。
城壁が遠ざかったところで、フィンが封印袋からもう一枚の薄紙を取り出した。
「これ、圧力記録に挟まってた」
教会追跡隊の監察票だった。
表にはグラナ火災の検証項目。裏には、ガレス自身が調査予定だったらしい古い記録庫の位置と、事件管理番号が書き込まれている。
アデルが荷車を止めた。
紙の番号へ指を置く。
「この番号を知っています」
「どこの記録だ」
彼女はすぐには答えなかった。
紙を持つ指が強くなり、端に小さな皺が寄る。
「十六年前、私の故郷を滅ぼした転移者事件。その未公開映像を保管した旧均衡観測所です」
圧力記録だけなら、封印袋へ監察票を入れる必要はない。
ガレスが落としたのか、入れたのか。本人の言葉通り、断定はできなかった。
アデルは監察票を折り、自分の外套へ収めた。
「行きましょう。私が処刑聖女になった理由を、原本で確かめます」
次の目的地は、アデルの故郷の記録を封じた観測所になった。




