第20話 街を救うのに、俺一人では足りない
グラナ市の南門を抜けた時には、暖房区の屋根から炎が上がっていた。
冬ではない。だが、治療院や浴場へ湯を送る魔導暖房網は一年中動いている。石畳の下を通る主管から白い蒸気が噴き出し、逃げる住民の視界を塞いでいた。
【主管破裂まで:残り十五分】
【想定死者:八十七名】
火消し隊はすでに動いていた。
赤い革外套を着た隊員たちが水車を並べ、延焼した長屋へ放水している。別の隊は住民を広場へ誘導していた。
無能だから被害が広がっているわけではない。
地下で何が起きているか、情報が届いていないのだ。
「暖房所の責任者は誰だ!」
俺の声に、煤で顔を黒くした大男が振り返った。
「俺だ! あんたは――」
「説明は後だ。主管の図面を見せろ」
男は天告鏡の手配顔と俺を見比べた。
その横へアデルが立つ。
「彼には破裂の経路が見えます。私が責任を負います」
「反逆聖女まで一緒かよ……」
大男は一度だけ歯を食いしばり、腰の筒から配管図を引き抜いた。
黒い経路と図面を重ねる。
中央暖房所の圧力炉から伸びた主管は、南区で三本へ分岐している。東の逃がし弁は開いているが、北と西の弁は閉じられていた。火災を止めようと、現場ごとに系統を遮断した結果、圧力が中央へ戻っている。
このままでは主管が破裂し、地下水路へ溜まった熱と魔力が長屋の床をまとめて吹き上げる。
「火を消すだけじゃ間に合わない。炉を止めて、圧力の出口を作る」
「圧力炉はすぐには止まらん。冷えるまで半刻かかる」
「なら、東へ逃がす。東水路の先は」
「旧染物工房だ。今は空き地だが、途中に宿屋が一軒ある」
黒い線が、その宿屋の地下を貫いている。
「アデル、北と西の住民を石造りの浴場へ集めろ。火消し隊長は、消火班を半分だけ残して東の放水路を開く。炉の技師は俺と来い」
「東へ熱を流せば、宿屋が吹き飛ぶぞ!」
「先に空にする」
俺はフィンへ、広場の天告鏡を指した。
「警報を出せるか」
「告示局の鍵があればな」
「壊すなよ」
「直す方が得意だ」
火消し隊長が鍵を投げる。
フィンは鏡台へ駆け、配線板を開いた。
人手が足りない。
炉を止める者、放水路を開く者、宿屋を空にする者、長屋の火を切る者。俺一人で走れば、どこかが遅れる。
「聞け!」
蒸気と怒号の中で声を張った。
「俺には破裂までの時間が見える。だが、弁の扱いも、この街の道も知らない。炉の技師、火消し、荷車を動かせる者。それぞれ二人以上で組め。一人で持つな!」
一瞬、住民の動きが止まった。
最初に手を上げたのは、火消し隊長だった。
「俺は東の弁へ行く。弁職人を二人貸せ!」
「炉は俺たちが落とす!」
技師たちが応じる。
アデルは銀槍で石畳へ退避方向を示し、住民を二列に分けた。フィンが起動した天告鏡から、南区だけへ警報が流れ始める。
『北と西の住民は中央浴場へ。東宿場の住民は南門へ避難。荷物を取りに戻るな』
俺は宿屋へ走った。
木製の看板には《渡り鳥亭》とある。女主人らしい赤毛の女が、煙の中で客を外へ押し出していた。
「全員出たか!」
「息子がいない! 地下の薪庫に行ったままよ!」
女が宿へ戻ろうとする。
黒い経路は玄関ではなく、裏手の荷受け口を通って地下へ伸びていた。
「正面階段は蒸気管の上だ。床が抜ける。裏へ回れ!」
アデルが女を止め、俺と一緒に荷受け口へ向かう。
地下の扉は熱で歪んでいた。俺が取っ手へ触れる前に、銀槍の石突きが蝶番を打ち抜く。
薪庫の隅で、十歳ほどの少年が咳き込んでいた。
倒れた棚に脚を挟まれている。
「梁を持ち上げる必要はない。棚の下の薪を抜け」
アデルが少年を覆い、俺は右手で薪を一本ずつ引き抜く。空いた隙間へ槍の柄を差し込み、二人で棚をずらした。
少年を抱えたアデルが先に出る。
地上へ戻ると、女主人が少年を受け取った。
「マーラよ。借りは必ず返す」
「返すなら、今は南門まで走れ」
遠くで低い警笛が鳴った。
東の放水路が開いた合図だ。
主管の圧力が黒い線となって東へ流れる。宿屋の地下を通り、空き地の排熱塔へ向かう。
だが、最後の分岐で線が膨れた。長年使われていなかった排熱塔の蓋が、錆で半分しか開いていない。
【破裂まで:残り一分】
空き地には、弁を開けた火消しと技師がまだいる。
「全員、石塀の裏へ!」
人を下げ、俺は排熱塔の基部へ走った。
技師が叫ぶ。
「蓋が開かない! 圧力を戻せ!」
「戻せば長屋が飛ぶ」
炉はまだ熱い。今から別の出口は作れない。
黒い経路の先には、排熱塔が破裂して飛ぶ鉄片と、逃げ遅れた技師たちの死が見えた。
俺は基部の管へ左手を押し当てた。
【集荷】
排熱塔の蓋が吹き飛ぶ。
噴き上がった蒸気と熱は空へ抜け、鉄片は石塀の手前で勢いを失って落ちた。隠れていた火消したちに死傷者はいない。
代わりに、全身の感覚が一度に遠のいた。
黒い亀裂が肩を越え、鎖骨の下まで走る。高熱の中で指先だけが冷たい。
【積載率:44%】
膝をついた俺の周囲へ、住民たちが集まろうとする。
「待て。その腕は、厄獣になる兆候だ」
教会の告示を覚えていた男が、黒い亀裂を指した。
安堵しかけた人々の足が止まる。助け出された少年を抱くマーラも、息を詰めてこちらを見ていた。
アデルが俺の左腕へ手をかざした。
「漏出はありません」
断言してから、彼女は俺へだけ声を落とす。
「意識を保って」
「死者は」
火消し隊長が人数を数え、煤だらけの顔でこちらを向いた。
「ゼロだ。火傷はいるが、全員歩ける」
浴場の前から、安堵の声が広がった。
炉を止めた技師、放水路を開いた職人、住民を運んだ者たち。誰か一人が全部を引き受けたのではない。その結果として、俺が集荷したのは最後の破裂だけで済んだ。
広場の天告鏡が明滅した。
映ったのは救助ではない。
『転移者侵入後、グラナ市南区にて大規模火災が発生』
『反逆聖女と協力し、暖房設備を破壊した疑い』
実際の時刻も、炉の圧力上昇も消されていた。
火消し隊長が鏡を見上げ、拳を震わせる。
城門の方角から、追跡隊の角笛が聞こえた。




