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第2話 俺を売った子どもと契約する

「妹はどこだ」


「……運んでくれるのか」


「地下道を教える。その条件が本当ならな」


市場裏の路地。遠ざかる騎士の足音を聞きながら、俺は薄汚れた少年へ右手を差し出した。


「久瀬直人。三十六歳。元配車主任だ」


少年は差し出された手を取らず、俺の顔を見上げた。


「フィン。十一歳」


「フィン。先に確認する。どうして地下道を知っている」


「……なんで俺が、地下道を知ってると思ったんだよ」

「靴だ」

俺はフィンの足元を指差した。

「靴底と側面に、泥じゃなく緑色の苔と油がこびりついている。地上の裏路地を走るだけじゃつかない汚れだ。暗渠か、地下の配管設備を日常的に歩き回っている証拠だろ」

フィンは舌打ちをし、小さく頷いた。

「……いいぜ。昔の水路を歩ける地図がある。誰から教わったかは、今は言わない。西区の治療院の裏手までなら、騎士の網に引っかからず案内できる」

契約成立だ。だが、俺は右手を上げて念を押した。

「勘違いするな。お前が広場で俺を密告した事実は消えない。一度でも不審な動きを見せたら、その時点で契約は打ち切る。お前も妹も置き去りにして、俺一人で逃げる。わかったな」

大の大人が、十一歳の子どもに向ける言葉としては冷酷に過ぎるかもしれない。

数十分前に全世界へ指名手配され、見つけ次第処刑される世界だ。安易な善意や信頼は、お互いの命を縮める。

「……わかってるよ。こっちだって、妹が助かればそれでいいんだ」

フィンは踵を返し、路地の奥へと足を踏み出した。


案内されたのは、広場から少し離れた貧民区の廃屋だった。

崩れかけた屋根の下、藁を敷いただけの床に、小さな少女が丸まっていた。

荒い呼吸音。頬は不自然なほど赤く、苦しげに顔を歪めている。

「昨日から急に熱が上がったんだ。水も吐いちまう。治療院で治癒魔法をかけてもらわないと……」

フィンの声が震えていた。報奨金のために俺を売ろうとした理由はこれか。

俺は痺れる左腕を庇いながら、周囲を見渡した。廃屋の隅に、破れた毛布と、太い麻紐が落ちている。

「妹さんを起こせ。俺の背中に固定する。俺が指示を出すから、お前が紐を結べ」

左手は指先に力が入らない。固い結び目は作れそうになかった。

俺が背中を向けてしゃがみ込むと、フィンが妹を抱き上げて俺の背に乗せた。

「右肩から胸へ斜めに紐を通せ。次は腰だ。一箇所で縛るな。毛布ごと、荷重を三点に分散させるんだ」

配送センターで、不定形の荷物を運ぶ時の基本だ。

トラックの荷崩れを防ぐラッシングベルトの要領で、俺の右肩、胸、腰の三点を支点にして引き絞らせる。

「重心を俺の背中の高い位置に固定しろ。下にずれると、走った時に腰を持っていかれるぞ」

指示通りにフィンが紐を固く結ぶと、少女の体重が俺の身体へ均等に密着した。

左腕は支える程度にしか使えない。俺が立ち上がって軽く足踏みをしても、背中の荷重はブレない。

「……あんた、荷造りだけは妙に手際がいいな」

「人を荷物扱いする気はない。だが、重さの支え方は同じだ。行くぞ」

俺は短く促し、廃屋の裏口へ向かった。


フィンの案内で入り込んだのは、街の地下に張り巡らされた古い水路跡だった。

湿った空気が肌にまとわりつく。足元は滑りやすく、光はところどころにある地上の鉄格子から差し込むわずかな陽射しだけだ。

背中の重みと、左腕の痛みが体力を削っていく。

左腕の皮膚に走った黒い亀裂。市場事故で、防ぎきれなかった老人の死を引き受けた代償。

四パーセントという数字が、単なる幻覚ではないと思い知らされる。肘から先が焼けるように熱く、指先へ力を入れるたび痺れが走った。


不意に、頭上が明るくなった。

幅の広い鉄格子。大通りの真下を横切る通気口だ。

俺の足が止まった。フィンも隣で壁に張り付く。

鉄格子の向こう側は、先ほど俺が連鎖事故を止めた広場の交差点だった。


砕けた木製カートと散乱した石材の周囲を、重武装の騎士たちが封鎖している。

その中心に、一人の女が立っていた。

銀の甲冑の上に、純白の法衣。手には身の丈ほどもある銀槍を握っている。

整った顔立ちだが、その表情には一切の感情が読み取れない。厳格な眼差しが、事故の現場を検分していた。


「……処刑聖女だ」

フィンが、掠れた声で囁いた。

「均衡教会の聖女。転移者を見つけたら、必ず殺す教会の人間だ」


地上の声が、通気口を通じて地下へ響く。

『アデル様。報告によれば、転移者が自警団に指示を出し、空のカートを斜めに固定して荷馬車の進路を変えたと。結果として、死者はゼロです』

騎士の一人が、事実を確認するように報告する。

銀槍の女――アデルと呼ばれた聖女は、俺が最後に老人を庇い、飛び散った破片を引き受けた空間へ歩み寄った。

『現象としては事実でしょう。被害は防がれました』

アデルの声は、鈴のように澄んでいた。

彼女は石畳を見つめている。いや、石畳ではなく、そこにある『何か』を観測しているようだった。

『ですが、消滅したわけではありません』

アデルが銀槍の石突きで、石畳を硬く鳴らした。

『十八人を覆っていた死の因果は、事故の経路が変わったことで薄れています。しかし、最後に老人へ届くはずだった一筋だけが消え、転移者の逃げた方角へ移動している』

騎士たちが僅かにざわめく。

『善人であるかは問題ではありません。あの男は、やがて限界を超えて破裂し、より大きな惨劇を生む容器です。怪物になる前に処刑します。それが多数を救う慈悲です』


背筋に冷たい汗が流れた。

狂信ではない。俺の能力を知らないまま、彼女は現場の痕跡だけから、災厄が俺の身体へ移動したという事実を正確に読み取っている。

そして、その事実に基づいて俺を排除しようとしている。彼女の視点では、俺は歩く爆弾に等しい。


アデルの冷徹な視線が、動いた。

彼女は俺たちが逃げ込んだ路地、そして、そこから続くこの地下道の方向へ顔を向けた。

目が合ったわけではない。だが、彼女が確信を持って俺の足跡を追ってくることだけは理解できた。


「急ぐぞ」

俺はフィンの肩を叩いた。

あの聖女が追いつく前に、治療院へ辿り着かなければならない。

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