第18話 処刑聖女は、俺を殺さなかった
銀槍の穂先が、喉の皮膚へ触れた。
息は切れ、膝は石畳についたままだ。積載率は二十五パーセント。群衆を抜けて走り続けた脚に、すぐ立ち上がれる力は残っていない。
「そうです。それでいい」
マルデルの声が背後から届く。
「あなたは処刑聖女だ。転移者に惑わされる前の、正しいあなたへ戻りなさい」
アデルは答えなかった。
槍を握る両手は動かない。穂先だけが、俺の呼吸に合わせて僅かに上下している。
「一つ、確認します」
やがてアデルが口を開いた。
「この最終命令は、中央塔の大衡司が発したものですね」
「封蝋を見ればわかるでしょう」
「では、なぜ監察司祭であるあなたの魔法印が、本文へ直接刻まれているのですか」
マルデルの笑みが止まった。
アデルは片手を槍から離し、先ほど渡された羊皮紙を掲げた。赤い封蝋の下、文字の間を細い紺色の光が走っている。
「命令書は中央塔の記録鏡から転写されます。地方監察官の印は受領欄にだけ残る。これは、あなたが自分で書いた文書です」
「災害の混乱で、正式な転写が間に合わなかっただけです」
「ならば記録鏡で照会しましょう」
アデルの声は平らだった。
マルデルが顎を引く。従者が検査馬車の台へ置いた小型の通信鏡は、表面が暗いまま光を返さなかった。
「故障しています。照会は中央へ戻ってから――」
「壊れてないぜ、それ」
フィンの声がした。
検査馬車の脇から、小型鏡の裏側を覗き込んでいる。裏蓋の隙間から、外された導線が一本だけ垂れていた。
「送信用の線を抜いてあるだけだ。繋げば、音の記録は出せる」
「記録など残るはずがない」
マルデルが初めて声を荒らげた。
「親父の型番表にあった。命令用の鏡は、送信した音を石に一日残す。聞き間違いで兵を動かさないためだ」
フィンは鏡の側面に刻まれた小さな番号を指で叩いた。
「あんたの従者は、古い石を消去せずに使った。線を戻せば、昨日の分まで出るぜ」
フィンが導線を差し戻し、水晶片を押し込む。
鏡の奥で光が瞬き、雑音に混じって男の声が流れた。
『中央の返答を待つ必要はない。私の印で作れ』
マルデルの声だった。
『鉱山の事故記録は回収しろ。転移者が来る前のガス濃度と、爆発時刻が残れば面倒だ。救助映像も告示局へ渡すな』
荷捌き広場が静まった。
現場監督が、煤で汚れた図面筒を抱えたままマルデルを見る。騎士たちも、剣へ置いた手を動かさない。
「ガス濃度の記録なら、ここにある」
監督が図面筒から測定表を抜いた。
「転移者が鉱山へ着く二日前から上がっていた。爆発時刻も坑道鐘に残ってる。全部、あんたの部下へ渡した」
マルデルは測定表を見ようとしなかった。
「その鏡を壊せ!」
マルデルが叫んだ。
二人の従者がフィンへ走る。
銀槍が動いた。
俺の喉から離れた穂先が、従者たちの足元を横薙ぎに払う。二人は石畳へ転び、次の一突きで剣を弾き飛ばされた。
アデルはそのまま踏み込み、槍の石突きをマルデルの胸へ叩き込んだ。
男の身体が後ろへ倒れる。
白い法衣の裾が埃を巻き上げた。
「アデル……何を」
「証拠隠滅、命令書偽造、救助記録の改竄未遂。均衡教会の規則に従い、監察司祭マルデルを拘束します」
穂先は今度こそ、マルデルの喉へ向いていた。
「私を捕らえれば、あなたも反逆者だぞ」
「偽造された命令へ従わないことを、反逆とは呼びません」
「転移者を生かした事実は消えない!」
アデルの指が一度だけ強く槍を握った。
「消すつもりもありません」
俺へ背を向けたまま、そう答えた。
鉱山の騎士たちが動いた。
検査馬車の前で転倒者を引き上げていた二人がマルデルの両腕を押さえ、教会式の拘束具をはめる。マルデルは肩を揺すって抵抗したが、立ち上がることもできなかった。
「私は監察司祭だ! その拘束具を外せ!」
「先ほど、我々を含む四十七名を退避させたのは、転移者の指示です」
騎士の一人が答えた。
「だから奴を信じるのか!」
「いいえ。今、聞いた記録を信じます」
アデルは騎士へ頷き、拘束具の封印を自分で確認した。
「記録鏡の音声を、鉱山と野営地の告示鏡へ複製してください」
アデルがフィンへ言う。
「できるのですか」
「時間があれば。親父の記録に同じ型がある」
「ならばお願いします。消される前に、複数へ残します」
フィンは頷き、小型鏡を抱えて管理小屋へ走った。
マルデルが石畳の上で笑った。
「遅い。私がここへ来た時点で、定時報告は送ってある。次の朝鐘で、お前の名も流れる」
選鉱場の外では、彼の別働隊が残っている。
朝鐘で反逆者に指定されれば、教会の宿舎も街道も使えない。アデルの故郷を救った英雄として扱ってきた者まで、彼女へ武器を向ける。
法衣の胸元から、処刑聖女の身分章を外す。銀色の天秤が刻まれた徽章を見下ろし、偽造された命令書の上へ置いた。
「それを外したら、どこへも戻れないぞ」
俺が言うと、彼女はようやく振り返った。
顔色は悪い。けれど、視線は逸れなかった。
「戻れば、あの音声も、あなたが救った四十七人も、なかったことにされます」
「俺についてくれば、全世界から追われる」
「あなたは一人では、次の集荷で倒れます」
痛いところを突かれた。
「だから同行するのか」
アデルは外した身分章を、偽造命令書の中央へ置き直した。
「休戦は終わったはずだ」
「では、新しい契約を結びます。私は証拠を集める。あなたは災厄の経路を示す。互いに勝手に死なないこと」
最後の条件は、フィンに言われた言葉と同じだった。
「わかった」
右手を差し出す。
アデルは一瞬その手を見つめ、埃で汚れた自分の手を重ねた。
「処刑は」
「保留ではありません」
手を離し、彼女は銀槍を拾う。
「あなたが救った人々と、教会が隠した記録を確かめます。それが覆らない限り、私はあなたを殺しません」
はっきりとした言葉だった。
*
翌朝。
選鉱場の天告鏡が、けたたましい鐘と共に三人の顔を映した。
『転移者、久瀬直人』
『反逆聖女、アデル・ヴァレリス』
『協力者、フィン』
『三名を、抵抗の有無を問わず拘束せよ』
処刑対象が、一人から三人へ増えた。




