第16話 子どもに、一人で背負うなと叱られる
翌朝、救護所の床にフィンの毛布だけが残っていた。
荷物も、靴もない。
「あの馬鹿」
俺は寝台から脚を下ろした。
熱は引ききっていない。立ち上がると膝が揺れたが、昨日よりはましだった。
「何をするつもりです」
「探す」
「あなたは歩ける状態ではありません」
「だから、あいつが勝手に出て行った」
枕元に置いていた外套も消えている。父親の地図は一枚だけ残され、第二断界井までの経路に炭で印がつけられていた。
その横に、乱れた字がある。
『北へ行け。追手は俺が南へ引く』
夜明け前、鉱山の見張りが教会の斥候を見たと話していた。フィンは俺の外套を被り、手配犯の代わりに目立つ道へ出たのだ。
「南の搬出路だ」
「なぜわかるのです」
「あいつが使える囮は、足跡じゃない。音だ」
鉱山には、採掘した石を麓へ送る貨車軌道がある。空の鉱車を走らせれば、山道のどこからでも聞こえる。
俺たちは救護所を出た。
南斜面へ回ると、朝霧の向こうから鉄輪の音が続いていた。斥候用の角笛も聞こえる。
軌道脇には、小さな靴跡。フィンは枕木の上を選んで走っている。大人の歩幅を偽装するつもりで、ところどころ二本分を飛ばしていた。
その歩幅は途中から狭くなり、右足だけが枕木の間へ何度も落ちている。無理に走って、脚が疲れてきた跡だ。
「斥候は何人です」
「角笛は二方向。最低三人。南へ二人、フィンの後ろに一人」
「あなたは歩けますか」
「走るよりはましだ」
アデルが俺の右腕を自分の肩へ回そうとする。
「要らない」
「速さが必要です」
「あんたが槍を使えなくなる」
「では、倒れた時だけ支えます」
彼女はそれ以上手を出さず、俺の半歩後ろを進んだ。何度か足がもつれたが、そのたびに背中へ手が添えられ、倒れる前に離れた。
「子どもの考えることじゃない」
「あなたに似たのでしょう」
アデルの言葉に反論しかけ、やめた。
軌道は古い選鉱場で二つに分かれていた。
南へ下る本線では、俺の外套を被せた空の鉱車が、緩い坂を音を立てて走っている。二人の教会斥候がそれを追っていた。
フィン本人は西側の側線にいた。
切替器の根元へしゃがみ込み、錆びついた転轍棒を両手で動かそうとしている。その背後から、別の斥候が近づいていた。
「動くな、子ども」
低い声に、フィンの肩が強張る。
斥候が腕を掴もうとしたところへ、銀槍の穂先が割って入った。
「その手を離しなさい」
アデルが男とフィンの間へ立つ。
男の顔から血の気が引いた。
「ア、アデル様。ですが、その子どもは転移者の協力者です」
「拘束命令は出ていません。北側で待機しなさい」
「しかし――」
「二度言わせないでください」
斥候は手を引き、敬礼して後退した。
もう二人は空の鉱車を追って斜面の下だ。今なら西へ抜けられる。
俺はフィンの前まで歩き、その頭を右手で小突いた。
「勝手な行動はするなと言ったはずだ」
「追手を引き離しただろ」
「捕まってたら終わりだ」
「捕まる前に切替器を戻すつもりだった。錆びてなきゃ間に合った」
「間に合わなかった。結果で話せ」
フィンが唇を曲げた。
だが、俯かなかった。
「おっさんこそ、毎回そうだろ」
「何がだ」
「人には逃げろって怒鳴るくせに、自分だけ残って災厄を持ってく。昨日だって、百四人分を一人で抱えて倒れた」
胸の奥に、言葉が引っかかった。
「俺の能力でしか集荷できない」
「だからって、何も言わずに一人で行く理由にはならないだろ。俺が囮になるのは駄目で、おっさんが一人で死にかけるのはいいのかよ」
フィンは俺の外套を胸へ押しつけた。
「自分だけなら好きにしろ。でも、目の前で勝手に死なれたら、残った俺たちがどうするかくらい考えろ」
子どもに説教されるとは思わなかった。
それも、反論できない内容で。
「言い過ぎです、フィン」
アデルが静かに割って入る。
「ですが、今回はフィンが正しい」
「どっちの味方だ」
アデルは俺から目を逸らさなかった。
フィンは鼻を鳴らし、父親の地図を広げた。
「第二断界井は、この選鉱場の下だ。親父の印じゃ、西の排水坑から入れる」
斥候が戻る前に移動する必要がある。
俺たちは西側の側線を進み、崩れた石垣の裏にある排水坑へ入った。
坑道の奥にあった断界井は、最初の井戸より小さかった。
円筒の上半分は岩盤へ埋まり、表面を覆う教会の護符も湿気で半ば剥がれている。それでも黒い亀裂を近づけると、腕の奥が引かれた。
「今度は私が周囲を見ます」
アデルが銀槍を手に、入り口へ立つ。
フィンは俺の右袖を掴んだ。
「倒れる前に言えよ」
「わかった」
「本当か?」
「一度で聞け」
左手を井戸へ押し当てた。
【配達可能】
黒い亀裂の縁から、溜め込んだ熱が井戸へ流れ出す。
痛みが薄れ、呼吸が深くなる。前の井戸で感じた危険な高揚が頭の奥へ浮かびかけたが、右袖を引くフィンの手が現実へ戻した。
石の円筒の内側から、遠い水音が返ってくる。災厄が消えているのか、どこかへ運ばれているのかはわからない。
アデルは俺ではなく井戸を見ていた。
「直人から減った濁りが、設備の奥へ沈んでいます。地面へ漏れてはいません」
「なら、配達先としては正しい」
「なぜ教会が封鎖したのでしょう」
答えはない。
護符の半分は剥がれているのに、井戸はまだ使えた。壊れて封じたのではなく、使わせないために塞いだように見える。
「そこまでだ、おっさん。顔つきが変だ」
腕を離す。
【積載率:25%】
【未配達分:配達完了】
【内部破裂予告:解除】
亀裂は肘の下まで後退していた。握った左手はまだ痺れているが、指先はわずかに動く。
「次からは、先に上限を決める」
フィンが腕を組んだ。
「誰が決める」
「三人でだ」
言い返そうとして、やめた。
坑道の外から、複数の馬蹄が止まる音が届いた。
続いて、よく通る男の声が響く。
「均衡教会監察司祭マルデルより、処刑聖女アデル・ヴァレリスへ最終命令を伝える!」
アデルの銀槍が、低く構え直された。




