第15話 眠っている間だけ、聖女に命を預ける
薬草を煮る匂いで、意識が浮かび上がった。
目を開けても、視界は白く霞んでいる。背中には硬い寝台。左腕は熱を持っているのに、指先の感覚がなかった。
「動かないでください」
すぐ近くから、アデルの声がした。
顔だけを向ける。鉱山の救護所らしい狭い部屋に、簡素な寝台が並んでいた。俺の横にはアデルが椅子を寄せ、銀槍を壁へ立てかけて座っている。
窓の外はすでに暗い。
「坑夫は」
「百四名、全員の生存を確認しました。重傷者は七名。いずれも治療中です」
胸に詰まっていた息が抜けた。
窓の外では、木札を打ち合わせる乾いた音が続いていた。坑夫が坑道へ入る時に預ける番号札だ。監督たちは回収した札と本人を照合し、名を一つずつ読み上げている。
百四番目の返事が聞こえた後、外で待っていた家族たちから泣き声と歓声が上がった。
誰も死んでいない。
数字ではなく声で確認して、ようやく身体の力を抜けた。
身を起こそうと右肘へ力を入れる。途端に視界が回り、寝台へ肩を戻した。
「だから動くなと言ったでしょう」
「何時間、寝てた」
「日が沈んでから二刻ほどです」
十二時間の休戦は、とっくに終わっている。
それでも俺の首は胴体についたままだった。
白衣を着た女が、湯気の立つ鉢を持って近づいてきた。鉱山付きの治療師だ。彼女が俺の左腕へ手を伸ばした瞬間、アデルの手がその手首を止めた。
「触れないで」
鋭い声だった。
治療師だけでなく、俺もアデルを見る。
「ですが、亀裂の周囲を冷やさなければ」
「呪いが移動します。布を置いてください。私が行います」
アデルは治療師から濡れ布を受け取り、俺の袖を肘まで切り開いた。
黒い亀裂は肩の手前まで伸びている。縁が脈に合わせて明滅し、細い靄が浮かんでは消えていた。
「ずいぶん大事にするんだな」
寝台の足元から声がした。
毛布の塊が動き、フィンが顔を出す。床に座ったまま眠っていたらしい。
「殺す相手に、治療師を触らせたくないほどか?」
「黙りなさい。二次被害を防いでいるだけです」
アデルは振り返らなかった。
ただ、濡れ布を絞る指が一度止まった。
「フィン。坑道の連中は本当に全員出たのか」
「三回数えた。監督の名簿とも合ってる。百四人だ」
「そうか」
それだけ確認できれば十分だった。
治療師は濡れ布を置いた後も、その場を離れなかった。
「聖女様もお休みください。爆発の後から、ずっとこの方の腕を押さえているではありませんか」
「私が離れた時に一度、災厄が漏れました」
「なら交代を」
「あなたには見えない」
短い拒絶だった。
治療師は何か言いたげに俺とアデルを見比べたが、隣の重傷者を呼ぶ声がして寝台を離れた。
「爆発の後から、ずっとか」
アデルは答えず、濡れ布を絞り直した。
「飯は」
「必要ありません」
腹が鳴った。
アデルではなく、床の毛布の中からだ。
「俺は必要だぞ」
フィンが顔を出す。
アデルはしばらく黙った後、入口の棚に置かれたパンを一つ取り、フィンへ放った。フィンが受け損ね、胸で抱える。
「聖女って、投げて配るのかよ」
「手が塞がっています」
俺の腕を押さえたまま、当然のように答えた。
目を閉じる。だが、眠りへ落ちかけるたび、左腕から漏れた黒い靄が坑夫の顔へ伸びた光景が蘇った。
俺が意識を失えば、また誰かへ向かうかもしれない。
「眠れませんか」
「眠ったら、腕を見ていられない」
「私が見ています」
すぐに返ってきた。
俺は目を開け、椅子に座るアデルを見た。
「休戦は終わったぞ」
「知っています」
「なら、なぜ残る」
アデルは答えず、濡れ布を俺の腕へ巻いた。
「眠りなさい」
その上から両手で押さえる。銀槍は手を伸ばせば届く場所にある。俺が暴れれば、いつでも喉を貫ける距離だ。
「靄が出たら、槍で腕を切り落とすか」
「必要なら」
「迷いがないな」
「あなたが眠れる程度には、迷わないふりをしておきます」
返事がわずかに遅れた。
フィンが毛布の中で何か言いかけたが、俺が目で止めた。
やがて、熱に押し流されるように意識が沈んでいった。
*
夜中に一度だけ、目が覚めた。
油灯の火は小さくなっている。フィンは床で丸くなり、治療師の姿はなかった。
アデルだけが同じ椅子に座り続けていた。
彼女の右手は俺の腕を押さえている。
左手には、黒い糸のようなものが絡みついていた。
「アデル」
呼ぶと、伏せられていた瞼が上がった。
その顔は青白く、額には細かな汗が浮かんでいる。
「それは何だ」
「漏れようとした因果を、ここで止めているだけです」
「手を離せ。あんたに移る」
「離せば、眠っているあなたは制御できません」
身を起こそうとしたが、アデルの手が肩を押し戻した。強い力ではない。それでも高熱に削られた身体は逆らえなかった。
「俺が引き受けた荷物だ」
「今は、私が見張ると決めました」
黒い糸が彼女の指へ食い込む。
アデルの呼吸が一度浅くなった。それでも手は離れない。
視界の隅に数字が浮かんだ。
【積載率:31%】
三十二から、一だけ減っている。
断界井へ配達したわけではない。アデルが封鎖術を重ねる間に、俺の中の災厄が一%だけ彼女へ移ったらしい。手を離しても、数字は三十一から戻らなかった。
「どうして減った」
「わかりません」
「あんたの手に移った」
「朝まで離しません。今は眠りなさい」
命令する声に、いつもの鋭さが戻っていた。
理由はわからない。だが、少なくとも今夜、俺が意識を失っても、この女は腕から目を離さない。
「何かあったら起こせ」
「あなたは起きても役に立ちません」
「言うようになったな」
油灯の向こうで、番号札を数える音が止んだ。
代わりに、夜番へ交代する坑夫たちの足音が遠ざかっていく。
ここにはアデルの槍と、フィンの寝息と、俺の腕を押さえる手だけが残った。
目を閉じた。
俺を殺すはずの銀槍が届く距離で眠ることを、不思議と怖いとは思わなかった。




