現代の若者世代
ダールベルク公爵邸の大広間は、先ほどまで典雅な弦楽の音色に満ちていた。
しかし、今は違う。楽団は演奏を止め、給仕たちは壁際に下がり、集った貴族たちが一斉に広間中央へ視線を向けていた。
その中心に立つのは、第五王子ループレヒト・ベッケラート。そして彼の腕に縋るように寄り添う、淡い金髪の少女。社交界では見ない顔であることから、平民だと貴族たちは判断した。事実彼女は子爵家ゆかりの平民であり、名をミリヤム・ビュルスという。
「マルガレーテ・アーレルスマイヤー!」
ループレヒトは得意満面に顎を上げ、婚約者である公爵令嬢を指差した。
「貴様はこれまで散々ミリヤムを虐げてきたそうだな! そのような卑しい女に国母となる資格はない! よって貴様との婚約を破棄し、俺は真実の愛で結ばれたミリヤムと結婚する!」
一瞬、会場は静まり返った。だが、それは衝撃で言葉を失ったからではない。その場に居合わせた上位貴族たちの脳裏に、全く同じ言葉が浮かんだからだ。
──終わった。
但し、終わったのはマルガレーテではない。ループレヒト自身であり、腕に撓垂れ掛っているミリヤムであり、その父母と弟である。
即座に動いたのはマルガレーテだった。そっと後ろに控える侍女に扇の影で指示を出す。それを受け、侍女が傍を離れる。
同時に夜会の主催者であるダールベルク公爵も動いた。
「扉を閉めよ」
低い一言だった。しかし、執事は一礼すると待機していた騎士に合図を送る。重厚な扉が次々と閉ざされ、窓際にも警備兵が配置された。
それだけでは終わらない。
「王城へ急使を」
「はっ!」
数名の騎士が裏口から駆け出していく。その様子を見て、招待客である公爵・侯爵たちもすぐに理解した。
「我が家も使者を」
「王宮へ事情を報告せよ」
「現場にいる全員の証言を記録する」
あちらこちらで同じような命令が飛ぶ。伯爵家以上の当主たちは、ほぼ例外なく家臣を走らせた。なお、子爵位以下の当主たちは全て出席している上位貴族の分家のため、本家の指示に従い重複する使者を送らず情報収集に当たっている。
誰一人としてループレヒトへ味方しようとはしない。それどころか、自らが王家への忠誠を示すため、逸早く報告しようとしていた。
流石に出席している貴族全員が王家への使者を送ると混乱するため、ダールベルク公爵・アーレルスマイヤー公爵など公爵家が派閥・分家を取りまとめで代表で使者を派遣することとなった。
「重複は不要だ。証言は私たちが保証する」
王家の分家たる公爵家当主たちの冷静な差配に異を唱える者はいなかった。
一方、当のループレヒトは自分が置かれた状況をまるで理解していなかった。
「どうした! 誰も何も言わぬのか!」
寧ろ歓声でも上がると思っていたらしい。己の生した暴挙が英断と持て囃されるとでも思っていたのか。断罪茶番劇が歓声を持って受け入れられるのは市井の出来の悪いロマンス小説くらいなものだ。
学院ではミリヤムと二人で過ごすたびに周囲が静かになっていた。それを、『皆が俺たちを認め、羨ましがり、邪魔しないように配慮している』と解釈していた彼にとって、この沈黙もまた、自分を畏怖している証拠としか思えなかった。何処までもお目出度い頭をしている。
実際には違う。皆、余りにも愚かな発言に呆れ果てていただけだった。
「貴様と貴様の母は、ミリヤムとその弟ニクラスを長年虐げてきたそうだな!」
ループレヒトは勢いよく言い放つ。
「異母弟妹だからといって差別し、屋敷にも住まわせず、嫌味を浴びせ虐げ続けた! 正当な跡継ぎであるニクラスを認めないとは呆れ果てたものだ! 全てミリヤムから聞いているぞ!」
その言葉に、会場の空気が更に冷えていく。貴族たちの視線は最早軽蔑すら通り越している。特にアーレルスマイヤー公爵家派閥の面々などは。氷のような眼差しでループレヒトとその腕に巻き付いているミリヤムを見据えていた。
──馬鹿だ。
──これほどとは思わなかった。
──こんな男が次期公爵の夫とならずに済んだだけでも幸運だ。
誰もが同じことを考えていた。
だが、当のマルガレーテだけは表情も顔色も変えない。銀糸のような髪を揺らしながら、冬空を思わせる蒼い瞳で婚約者を静かに見つめている。怒りも悲しみもない。あるのは呆れだけだった。
(面倒ですわね)
当主たる母に申し出てくれればさっくりと書類だけで済んだだろうに、態々夜会──公衆の面前でやる意味が解らない。こんな他家の夜会で宣言しても己の愚かさを露呈するだけではないか。もしかして、恥ずかしい自分の姿を見せて興奮する露出狂のような性癖でもあったのだろうか。
呆れ果てたマルガレーテは少々変な方向に思考を飛ばしてしまった。
婚約そのものは王家の事情で結ばれたものだ。公爵家が望んだ縁談ではない。王家──より正確には第四側妃が国王へ泣きつき、9割がた押し付けるような形で成立した婚約だった。だから、マルガレーテにループレヒトに好意はない、好意どころか情もない。問題はこの後始末だけである。
その時一人の侍女が静かに近づいた。先ほどダールベルク公爵の許へ伺いを立てたザスキアである。
腹心の侍女であるザスキアは寄子であるエスマルヒ子爵家の長女で、将来は公爵家侍女長となるべく教育を受けている。彼女はマルガレーテの斜め後ろに立ち、彼女にだけ聞こえる声で報告する。
「ダールベルク公爵閣下よりのご返答です。『別室など不要。この場で片を付けなさい。息の根を止めても構わんぞ』とのことでございます」
一瞬だけマルガレーテの眉がピクリと動く。随分物騒な返答である。尤も母方の従叔父であるダールベルク公爵らしいとも思った。
視線を向ければ、広間の向こうで公爵が親指を首筋に滑らせる仕種をしている。勿論、本当に首を刎ねろという意味ではない。社会的に完全に終わらせろという合図だ。
マルガレーテは苦笑すると首肯した。
ダールベルク公爵が第五王子に一切遠慮しない理由は明白だった。かれもまた王位継承権を持つ準王族だからである。しかも、ループレヒトより上位の継承順位である。
この国では臣籍降下した王弟が公爵家を興した場合、その嫡出子と嫡出孫までは王位継承権を保持する。その継承順位は他国からすれば複雑だ。
①王妃所生の王子王女、②第一側妃所生の王子王女、③臣籍降下した王の兄弟姉妹、④第二側妃所生の王子王女、⑤③の嫡出子・嫡出孫、⑥第三側妃所生の王子王女、⑦第四側妃所生の王子王女となる。
なお、妃も身分でその地位が決まり、王妃は他国の王族か自国の公爵家、第一側妃は自国の侯爵家、第二側妃は伯爵家、第三側妃は子爵家、第四側妃は男爵家の嫡出子であることが条件であり、臣籍降下で公爵位を賜れるのは王妃所生の王子王女と決まっている。側妃の子は母の実家と同じ爵位で臣籍降下し、側妃の孫世代は王位継承権を持たないのである。因みに現在は子爵家出身の側妃がいないので、第三側妃は空席である。
こうした順位を明確にすることで、王位継承争いを防ぎ、また愚かな王を出さないためのスペアを確保しているのだ。
故に③に該当するダールベルク公爵は第5位を持ち、アーレルスマイヤー公爵とマルガレーテは⑤に当たるためそれぞれ第10位と第12位の継承順位となる。
対するループレヒトは第14位。第四側妃──男爵家出身の側室の子であるため、現在王位継承権を持つ者の中で最下位だった。
つまり、血統と継承順位を見れば、マルガレーテのほうがループレヒトよりも格上だった。マルガレーテに婿入りしなければ、ループレヒトは臣籍降下し、村が五つ以下の小さな領地を与えられて男爵位を賜るのだ。
それにも拘らず、ループレヒトはそれを理解していなかった。彼は母第四側妃が父国王に寵愛されていることから、自分はいずれ王になるのだと本気で思い込んでいた。だからこそ『国母』という重い言葉を何の躊躇もなく軽々しく口にしたのである。
しかし、その一言は決して軽いものではない。
国母とは次代の王を産んだ女性のことを示す。その夫は当然、(基本的に)国王である。
現在、ループレヒトの上には13人もの継承権保持者がいる。王太子である第一王子も健在、王太子も第二王子も健康そのもの。13人の継承権保持者は皆健やかに過ごしているのだ。
それなのに自らの妻にと望む女性を『国母』と称する。その意味は一つしかない。
──王位簒奪。
つまり、国家反逆罪である。王宮へ急使が走った本当の理由はそこにあった。
だが、そんなことを知る由もなく、ループレヒトはなおも胸を張る。
「安心しろ、ミリヤム!」
彼は少女の肩を抱き寄せた。
「今日この場で、お前を公爵夫人……いや、未来の王妃にしてやる!」
その瞬間、広間の彼方此方から息を呑む音がした。いや、呆れを通り越し、最早哀れみに近い。『国母』だけならまだ言い訳の余地はあったかもしれない。国母は必ずしも王の妃とは限らない。国王の子以外が王位につく可能性はゼロではないからだ。しかし、ループレヒトははっきりと『王妃にしてやる』と言ってしまった。これでは言い逃れは出来ない。
マルガレーテは静かに目を伏せる。
(……終わりましたわね)
婚約が、ではない。王子の人生が。
程なくして、王宮から派遣された騎士たちの軍靴の音が、大広間へと響き始めていた。




