1代前の世代
「オリーヴィア、申し訳ないが、私の有責で婚約を破棄してほしい」
王立学院の中庭は、初夏の柔らかな日差しに包まれていた。噴水のせせらぎだけが静かに響くその場所で、ボールシャイト伯爵家長女オリーヴィア・ボールシャイトは、婚約者ライナルト・アーレルスマイヤーの口から告げられた言葉に、暫く返事が出来なかった。
幼い頃から婚約者として育てられた二人だった。筆頭公爵家と有力伯爵家。互いの家と派閥の結びつきをより強固なものにするための婚約であり、恋愛感情を前提としたものではない。それでも長年を共にした相手だ。それなりの情は育っていた。
「……理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
震えを押し隠し、オリーヴィアは問いかけた。ライナルトは目を閉じ、小さく息を吐く。
「私の心変わりだ。愛する者が出来た」
告げられた言葉に、オリーヴィアは直ぐに悟った。学院で最近噂になっている男爵令嬢、ユッテ・デーネケ。ライナルトが親しくしているという噂は耳に入っていた。しかし、彼は節度を守っており、二人きりになることもなく、不貞行為があるはずないと誰もが思っていた。学生時代の一時の戯れ、そう見做されていた。
だからこそ、オリーヴィアはその噂を知りつつも、それに振り回されることはなかった。
「……デーネケ男爵令嬢ですか」
同派閥ではない。敵対派閥というわけでもない。だが、公爵家嫡男と男爵家の次女が結ばれるなど、この貴族社会では有り得ないことだった。筆頭公爵家の夫人が男爵令嬢では社交界でも軽んじられる。伯爵令嬢のオリーヴィアでさえ、侮られないために血の滲むような努力をしたのだ。
「ああ」
ライナルトは頷いた。
「不貞ではない。だが、それは言い訳にはならない。婚約者がありながら他の女性へ心を移した時点で、私は男として不実だ」
言い逃れをしない。責任を他人に押し付けない。その姿勢は、最後まで公爵家嫡男らしかった。
「デーネケ嬢は何と?」
「『身の程知らずの横恋慕でした』と泣いていた」
オリーヴィアは呆れを隠すように苦笑した。泣くだけで許されると思うのか。その涙で十数家の婚約の組み直しと被る不利益が許されるとでも思っているのか。所詮下位貴族の、何れは平民になる娘なのだと感じた。
ここにユッテが来ていなくてよかったと思った。恐らくユッテは悲劇のヒロインになっているだろう。身分違いの恋に身を焦がし、上位貴族の婚約者に厳しく咎められ、涙を見せ、許しを請うのだ。憐れな己を見せつけながら。
「正直な方ですね」
「……ああ、自分の感情に正直なんだ。此処へも来たがっていたけれど、君にとって不快な言動しかしないだろうから、断った」
ライナルトもユッテの性質は解っているのだろう。
「それに、まずは君と私で話すべきだと思ったしね。そこに横恋慕女はいらない」
自分が恋した相手だろうに辛辣な物言いをするとオリーヴィアは苦笑する。彼女が貴族令嬢として問題があるということは解っていてもなお、彼女を愛しているのだろう。
ライナルトは深々と頭を下げた。
「全て私の責任だ。慰謝料も賠償金も、派閥の再編に必要な費用も、私が負担する」
オリーヴィアは眼を見開く。
「それは莫大な額になりましてよ」
「承知している」
「公爵家の資産からではなく?」
「私の愚かさの結果だ。公爵家には迷惑はかけられない。幸い、いくつか投資をしていて、その利益がある」
それは自ら罪を背負うと決めた男の覚悟だった。
しかし、オリーヴィアは彼の傲慢を見抜いてもいた。ああ、此処にも自分に酔っている男がいるとオリーヴィアは何処か冷めた眼で婚約者を見た。
「どうかご健勝で、アーレルスマイヤー公爵子息」
だから、わざと彼が失う地位で別れの言葉を告げた。そして
「ライ、愛していたわ」
一筋の涙が頬を伝う。彼が何かを言う前にオリーヴィアは踵を返し、彼に背を向けて中庭を去った。
きっと彼にとって自分に婚約破棄を告げるのは、次に進むための作業段階の一つだろう。だから、少しでも彼の心に傷を残したかった。ライナルトにとって自分は政略結婚の婚約者で、幼馴染で、同派閥の格下の令嬢だ。自分の思うとおりになると思っているのだろう。
だが、それではオリーヴィアの矜持が赦せない。だから、涙を一筋だけ流した。高位貴族女性の涙は武器だ。ライナルトの心に一滴の毒を流す、武器だった。
婚約破棄は学院卒業を待って正式に発表された。当然ながら、貴族社会は大混乱に陥る。筆頭公爵家嫡男と有力伯爵家令嬢の婚約は、単なる男女の約束ではない。それを軸に複数の家が縁戚関係を結び、派閥の結束を固め、力関係の調整を行うものだ。
その一本の太い糸が切れれば、全てを結び直さなければならない。結果としていくつもの婚約が解消され、新たな婚約が結ばれた。睦まじい婚約者同士が解消される悲劇もあった。それでも彼らは政略ゆえにそれを受け入れた。
損害は莫大だった。ライナルトの個人資産だけでは到底足りなかった。公爵家の後嗣としていくつかの投資を成功させ、資産は潤沢だったというのに。
ライナルトの両親──アーレルスマイヤー公爵夫妻は、足りない分を一旦全て肩代わりした。そしてその金額を全て息子の借金とした。当然、利子も付けた。
それだけではない。
ライナルトは自ら廃嫡を願い出た。願い出るまでもなくライナルトのやったことからすれば、廃嫡・廃籍は当然だというのに。
「私は平民となり、ユッテと共に市井で生きます」
そう願い出たライナルトだったが、それを却下した人物がいた。妹・ローザリンデである。
「お兄様、それは責任を果たしたことにはなりません。平民の稼ぎでこの借金を返せるとお思いですか」
言外に踏み倒す気かと問う。まだ10代の少女とは思えぬ厳しい声音だった。
「それに公爵家はお兄様を後継者として育てるため、莫大な費用と時間を投じました。その教育を無駄にし、平民となって逃げるおつもりですか」
「逃げるなどと……」
「結果は同じです」
ローザリンデは冷たく言い切る。ローザリンデはオリーヴィアのことを将来の姉として慕っていた。更にローザリンデが公爵家の後嗣となったことでこれまでの婚約も解消された。婚約者は嫡男だったがゆえに。全てはこの兄の愚かさゆえだ。
「恩を受けたなら返す。それが貴族でしょう」
公爵夫妻もその言葉を支持した。ライナルトは自分の婚約を無くすことによって妹の婚約まで壊したのだ。ライナルトが己の欲望を優先したがために、妹は多大な迷惑を被ったのである。逃げるなど許すつもりはない。
結果として、ライナルトは廃嫡されたものの、公爵家の従属爵位であるアーレ男爵位を与えられ、領地本邸で隠居している祖父母の許へ送られた。家令見習いとして。妻となったユッテは下級メイドとして採用された。
元公爵家嫡男。前公爵夫妻の祖父母にとっては目に入れても痛くない初孫だった。けれど、祖父母は情けを掛けなかった。
「お前はもう公爵家の者ではない。男爵として我が公爵家に仕える者だということを忘れるな」
二人は新人使用人として扱われた。ライナルトは家令見習いとして、これまで与えられた教育の成果を十分に生かすことを求められた。朝から晩まで領地を駆け回り、領民の声を聴き、書類を纏め、王都の父に送る。使用人だから嫡男だったときのような政治判断は許されない。ただ、下調べをし情報を集め、数字を纏めるだけだ。指には肉刺が出来、インクの染みが取れなくなった。
妻のユッテは下級メイドとしてこちらも朝早くから夜遅くまで働きづめとなった。掃除をし、洗濯をし、独楽鼠のようにくるくると動き続けた。
そこにユッテが憧れた高位貴族夫人としての生活はなかった。一日中働きづめで愛する夫との時間を取ることもままならない。時には『優秀だった若様を誑かした毒婦』と苛めを受けることもあった。
けれど、ライナルトもユッテも己の愚かな恋の結末を受け入れた。真摯に懸命に働いた。それが自分たちの贖罪なのだと。
そうして、20年が経つ頃、利子を含め借金は完済された。
そして現在。ローザリンデはアーレルスマイヤー公爵となり、公爵家を見事に運営している。借金を完済したライナルトはその能力を認められ、公爵家領地本邸の家令となった。ユッテもメイド頭を務めている。
罪を償い、自分たちの甘さと愚かさを認め改心し、懸命に働き、使用人として誠実に向き合った。そうやって信用を積み重ねた結果だった。
一方、嘗ての婚約者であるオリーヴィアも幸せを掴んでいた。婚約破棄後、派閥第二位であるバウムガルテン侯爵家嫡男との婚約が整えられ、今では侯爵夫人としてローザリンデの腹心として社交界でその存在感を示している。
嘗ての出来事を怨んではいない。寧ろ、ライナルトとユッテが己の甘えと愚かさを悟り改心し、責任から逃れなかったことを評価していた。
だからこそ、貴族社会ではこの一件は長く語り継がれることになる。
──『真実の愛の正しい処理方法』。
婚約者以外を愛してしまったならば、自ら有責を認めること。慰謝料も賠償金も全額支払うこと。家に受けた恩は、生涯をかけて返すこと。恋を選ぶなら、責任もまた背負うこと。
王家にも連なる筆頭公爵家嫡男が実践した前例は、何よりも重かった。その結果、軽々しく婚約破棄を口にする若者は激減した。誰もが知っていたからだ。『真実の愛』には莫大な代償が伴うのだと。
──しかし、20年も経てば、その教訓を知らぬ者・軽んじる者も現れる。しかもそれが王家の人間だった。
「マルガレーテ・アーレルスマイヤー! 貴様との婚約を破棄するッ!」
ダールベルク公爵邸の大広間。夜会の音楽を遮るような大声が響き渡る。
オリーヴィアは思わず目を閉じた。
「……まさか」
隣では夫であるバウムガルテン侯爵も苦い顔をしている。
声の主は第五王子ループレヒト・ベッケラート。その腕には可憐な少女が寄り添っていた。
会場中の同世代の貴族たちが、一斉に同じことを思った。
──またか。
──あの一件を知らぬ世代か。
そして、年長者たちは思う。いや、知らないのではない。教えられても過去のことと軽んじ、理解しようとしなかったのだと。
これから始まるのは断罪劇などではない。20年前に終わったはずの愚行の、愚かな、出来の悪い再演でしかなかった。




