ハーティアの独白 (前)
王子に婚約破棄されたあの日、私は積み上げた全てを失った。
友人も、家族も……貴族としても地位も、財産さえも幻だったかのように。
貴族としての地位を失った私は、無力だった。
明日の食事にありつく事さえも出来ない。
平民街へ降りても、ただ奇異の視線を向けられるだけ。
そこで私は思い知った、自分を受け入れてくれる様な居場所は、もう……どこにもない事を。
私はその視線から逃げる様にして、路地裏へと逃げ込んだ。
貴族の仮面はポロポロと剥がれ落ちていき、それは雫となり目から溢れ出す。
止まってよ……そう何度言い聞かせても止まらず、まるで自分の体ではないみたいで。
唯一出来るのは目を両手で覆い、仮面のカケラを落とさない様にする事だけ。
それでも、指の隙間から零れ落ちてしまい、石畳を濡らす。
いつしか、その涙も枯れた。
貴族としての仮面も、プライドも、全て一緒に手から零れ落ちた。
私はもう、ハーティア・ド・ラ・バタイユではない。
帰る家もない、ただの……ハーティアだった。
フラフラと私は路地裏を歩いていた、行く当てもなく。
生まれて初めて、こんなに薄暗い場所を歩いていると思う。
今までだったら「危険ですし、帰りましょうお嬢様」そう言われて帰宅しているだろうし。
幾ら人通りがなくとも、時折すれ違う人はいる。
だけども、まるで腫れ物の様に扱われ、避けていく。
そんな事をされても、私は足を止めない。
そうしていると……ふと思い出す。
傷を負ったりして死期を悟った動物は、誰にも見つからない様な場所へ体を置き…最期を迎える、という習性を。
ポキッ……
私の足元から、不吉な音が鳴る。
それと共にバランスを崩し、地面へと身が投げ出された。
擦り剥いてしまった膝と地面に突いた手がジンジンと痛む。
……もう、十分頑張ったよね?
ふと、地面から顔を持ち上げた先。
もう空が薄暗くなり始めたのにも関わらず、明かりがそこからは漏れていた。
こんな時間に明るいのは、平民街だと大通りしかないだろう。
あれだけ迷って、歩き続けたのにも関わらず、知らず知らずのうちに人が多い場所へ吸い寄せられていたみたいだ。
我ながら、単純すぎて苦笑してしまう。
もう口角を上げるほどの力もなく、心の中でだけ……だけど。
ヨロヨロと私は立ち上がる。
ヒールは片方だけ折れたから体が傾くけども、関係ない。
そうして私は光の方へと一歩踏み……出せなかった。
「なん…で?」
ガクガクと膝が震えている。
転んだ時の痛み?いや。それとは違う気もする。
そう、これは体の身体の痛みじゃなくて……
「あっ……」
前に進むために持ち上げたはずの足は、そのまま後ろへと置かれてしまう。
そんな状態の私が、光の方へと行ける訳が無かった。
ゆっくりと後退りする様に動き……その場に崩れ落ちてしまった。
そして近くの段差に腰を下ろして、膝を抱えて顔を埋める。
枯れたはずの涙が、溢れ出してきた。
情けなさすぎる自分に、心底腹が立つ。
硬い貴族の仮面は崩れ、残ったのはハーティアという個人だけ。
その容易に傷ついてしまう程に柔らかい部分をすり減らして、涙が次々と浮かんでくる。
そうして私は初めて自覚した。
心が本当は弱かったんだって。
縋るモノがあったから、強くいられた。
侯爵家の名に恥じない、立ち振る舞いが出来た。
例え何を言われても、全て無視出来た。
でも今は、奇異の視線を向けられる…それだけで心が折れてしまう。
「もう、良いかな?
頑張った……よね?」
ポツリと溢しても、誰も聞いていない、褒めてもくれない。
だから、私だけは……自分を褒める。
そうしないと……最後の一欠片さえも、砕け散りそうだから。
そうして私は、いよいよ動けなくなった。
「おいっ、いたかっ?」
「いや?これは、今日長くなるな……」
「はぁ、本当に王子サマも人遣いが荒いぜ」
……遠くで何かが聞こえる。
王子サマ……シュタイン?
まさか、追いかけられてる?
何故?謝るためではないのは確かだ。
「……自分の醜聞を、隠すため」
答えに辿り着いた瞬間、背筋をゾクゾクッとした寒気が走り抜けていく
彼は私に証言させて、あのパーティーの出来事の責任を全てこちらへ押し付け、無かった事にする……。
抵抗したら、今はただの平民の私は……処刑だ。
爪が割れるかと思うほどに、強く拳を握りしめる。
悔しさで、もう頭がおかしくなりそうだ。
……でも、そんな終わり方でも良いかもしれない。
どうせ逃げれるほどの体力はないのだし。
そうして天命を待つだけの私。
「こんばんは」
かけられた言葉にビクンと体は跳ねる。
遂に、見つかっちゃったみたいだ。
これからの事を考えたら憂鬱になるけども……
「良かったら、入って行きます?」
その言葉で、思考が止まった。
追っ手じゃ……ない?
ずっと伏せていた顔を、ゆっくりと持ち上げていく。
声の持ち主の男性は、こちらへと視線を向けてきていた。
身につけている灰色の作業服が汚れている、だからきっと仕事帰り。
……追っ手は!?いないか。
気を張っていたのか、ホッと吐息が漏れてしまう。
そうして僅かな逡巡の末に、
「お願い……します」
その救いの手を、縋る様に取ってしまった。
やっぱり、まだ……捕まりたくない、死にたく……ない。
そんな希望を抱いて。
「どうぞ」
「……ありがとう」
目の前に置かれた温かな紅茶。
そのふんわりと立つ茶葉の香りが、傷ついた心を優しく癒してくれる。
「……美味しい」
「それは良かった」
まだ、舌が火傷してしまいそうなほどに熱い。
でも夜風で冷えている体にとっては丁度よかった。
例え、いつも飲んでいた物と比べて安物だとしても。
お茶を出してくれた彼の、丁寧な仕事の賜物だろうか。
家を追い出されてから、ずっと張り詰めていた糸が緩む。
「どうして……ウチの前に座り込んでいたんですか?」
だけども彼の質問を聞いて、心臓が大きく跳ねた。
きっと彼の声色から、純粋にこちらを心配してくれているのは感じる。
でもそれは話せない……話したく、ない。
つい用意されたカップを、ギュッと握りしめてしまう。
そんな私の様子を見てか、彼は強く問い詰めたりはしてこない。
その優しさが、今は心地良かった。
ただそれも、一瞬で崩れ去るほどに脆く儚い物だった。
ドンドンドンッッッ
もう陽はとっくに落ちた夜分。
尋常ではない程に強いノックが鳴り響く。
彼の様子をこっそり窺っても、困惑している様だ。
だからきっと彼が原因ではない……あっ。
王子が派遣した、捜索隊だ。
さっき近くで会話が聞こえたし、もうここまで捜索の手が伸びてきている。
落ち着いていたはずの心が乱れ始める。
体の震えが、止まらない。
さっきまでは諦めていたぐらいだったのに……。
「隠れないで良いから、喋らないで座ってて。
『後はこっちで何とかするから』」
彼はきっとそこで事情を悟ったのだろう
優しく言い聞かせる様な言葉に、私は頷く事しかできない。
そして彼は玄関まで行き、その扉を開く。
そこでの会話は何となく聞こえてきて……衛兵の格好をした男達が中へ入ってきた瞬間、心臓が止まるかと思った。
玄関先で止めてくれる訳じゃなかっ……たの?
くたびれてしまったけども、今もパーティーで着たドレスのままで。
たとえ顔が分からなくても、すぐに気づかれてしまう。
まさか……売られた?
彼とはもちろん初対面。
もし優しい人間でも、衛兵達が探している人間なら犯罪者だと思うだろう。
だから逃げない様にこちらへ言い聞かせた、自身に罪が向かない様に……。
最悪の方向へ辻褄が合っていく。
怒りか、悲しみか……判別つかない感情。
溢れ出たそれで、膝の上に置かれた拳が震える。
……もう逃げる先もない。
静かにそのソファへと腰掛け続け、沙汰を待つ。
目の前にはきっとリーダーだろう男がやってくる。
そして正面から顔を合わせ……去っていった。
「???」
こちらの理解が追いつかないまま、彼と衛兵は言葉を交わし…この家は再びの静寂を取り戻した。
助かった……の?
「ふぅ……」
そして彼は何かやりきった様な溜息を溢しながら、ソファの隣へ体を沈めた。
だからつい、
「……一体、どういう事なの?」
「いやいや、それはこっちが聞きたいんだけどね。
王太子に狙われるなんて、一体何をしでかしたのさ」
その事を聞いてしまうけど、こちらはむしろ疑問を投げかけられる側。
何も言い返せない。
別に本当の事を喋らないという選択肢もある。
だけども……それは不義理だと思った。
彼は、あの事件が起きてから唯一……私を守ってくれた人だったから。
そうして私はポツリポツリと、事情を話す事にしたのだ。
最初は、冷静に話せていた。
でも徐々に声が震えてきて、涙が頰を伝い始める。
あの出来事を振り返れる程、まだ心には余裕がなかった。
質問してきた彼も、こちらの様子を見てか「もう、止めよう」と言ってきたけども止められない。
そして婚約破棄だけではなく、家を追い出された事も、街を彷徨った事も全て吐き出した。
若干の爽快感と共に、致死量の絶望感が胸の中に広がっていく。
目を背けていた現実を、客観視……してしまったから。
近くで彼がアワアワしているのは分かる。
必死にタオルを差し出してきたり、お茶を勧めて来ているのも。
だけども感謝の言葉は嗚咽に飲み込まれ、上手く言葉になってはくれない。
そんな私の隣に彼は座ると、遠慮がちにその手が背中へと添えられる。
そして優しく……優しく、その手でさすってくれた。
……こんな風にしてもらったのは、いつ振りだろう。
物心ついた時には、もう親は厳しかったから。
きっと記憶が残ってないぐらい、私が幼い時だけだと思う。
友人には、泣いている所という弱みは見せなかったし。
だから……初めてだ。
じんわりと彼の体温が、優しさが、ゴツゴツとした手を通して染み込んでいく。
体を包み込まれる様な安心感に身を委ねて……涙は、枯れた。




