第四章 気づけなかった音
仕事は、順調だった。
少なくとも私は、そう思っていた。
主任として、組合委員長として、求められる役割は増え続けていたが、それが自分の価値の証明のように感じられていた。
忙しいことは、いいことだ。
必要とされている証だ。
そう信じて疑わなかった。
朝は早く、帰りは遅い。
休日も、仕事か組合の用事で埋まることが増えていった。
家にいる時間は、確実に減っていた。
だが私は、それを問題だとは思っていなかった。
むしろ、仕方のないことだと考えていた。
今は踏ん張る時期だ。ここで結果を出せば、いずれ楽になる。
そう自分に言い聞かせていた。
妻は、何も言わなかった。
少なくとも、私の前では。
食事の時間が合わなくなっても、
会話が減っていっても、
特に強く責められることはなかった。
だから私は、問題はないのだと思っていた。
今思えば、それが一番の異変だった。
何も言わなくなること。
それは、受け入れているのではなく、諦めているということだったのかもしれない。
だが当時の私は、その違いに気づかなかった。
家に帰れば、明かりはついている。
食事も用意されている。
日常は、形としては保たれていた。
だから私は、それで十分だと思っていた。
仕事の話をしても、妻は静かに聞いていた。
深く踏み込むことも、否定することもない。
その距離を、私は“理解してくれている”と都合よく解釈していた。
ある日、帰宅すると、部屋が妙に静かだった。
いつもと同じ時間。
だが、どこか違う。
テーブルの上には、紙が一枚置かれていた。
短い言葉が、そこに並んでいた。
その内容を読んだとき、
私は初めて、自分の中で何かが崩れる音を聞いた。
だがそれは、突然起きた出来事ではなかった。
ずっと前から、小さな変化は積み重なっていたはずだ。
ただ私は、それを見ようとしなかった。
いや――見る必要がないと思っていた。
仕事がうまくいっている限り、
他のことは、いずれどうにかなると。
そう信じていた。
そして気づいたときには、
もうどうにもならないところまで来ていた。
私は、仕事には向き合っていた。
だが、人には向き合っていなかった。
その事実を、
このとき初めて、突きつけられることになった。




