最終章 承知しました
会議室のドアが閉まる音は、思ったより軽かった。
誰も、こちらを見ない。
資料を片付ける音だけが、ばらばらに響いている。
「では、この方向で進めます」
そう言って会議を締めたのは、年下の部長だった。
かつて、私の部下だった男だ。
私は軽くうなずいた。
それで十分だった。
いや――それ以上、何も求められていなかった。
以前なら、違った。
その場の最後に必ず、私が言葉を持っていた。
だが今は、その役割はもうない。
そして、もう一つの事実がある。
私は東日本メンバーを守る以前に、外されていた。
それが最初だった。
新本部長の子飼い――かつての部下だった人間の下に付くことになった。
形式上は「豊富な経験を活かし、この人間を支えてほしい」という示達だった。
だが誰も、それを言葉通りには受け取っていなかった。
建前と本音が一致することなど、最初から期待されていない組織だった。
本音は明確だった。
排除。
そして、残り少ない会社生活を、この部の“お客様の苦情処理”という誰もやりたがらない場所で過ごさせること。
現場と本社の矛盾。
施策と実態のズレ。
数字のしわ寄せ。
組織の歪み。
そのすべてが、最後に流れ込んでくる場所。
そこに立って初めて、この部の“レベル”を思い知ることになる。
数字は良い。表面は整っている。
だが、お客様の視点が抜け落ちている。
苦情を処理するたびに、それがはっきりしていく。
論理はある。説明もできる。
しかし「お客様のため」という一点だけが弱い。
情けない、と何度も思った。
それでも、不思議とお客様は皆、良い方ばかりだった。
怒りの奥にあるのは、ほとんどが期待だった。
その期待に向き合っているうちに、
いつしか私は思うようになっていた。
苦情は、終点ではない。
入口だ。
苦情が、期待に変わる仕事ができるはずだと。
そう信じて、私はこの残りの会社生活を過ごしていく。
不思議と、怒りはない。
後悔もない。
もしあの時「承知しました」と言っていたら、
別の人生はあったのかもしれない。
だがそれは、別の人間の人生だ。
私は言わなかった。
言えなかったのではなく、そうする必要を見出さなかった。
その結果として、今がある。
そして今の自分のほうが、
まだ自分の形を保っている気がしている。
承知した人々は、今、何を思っているのだろう。
だが、そんなことはもう、私の課題ではない。
何のために仕事をしたのか。
その答えは、風に吹かれている。
人生が二度あれば、覚悟なんて意味をなくすのかもしれない。
だがこの人生は一度きりだった。
だからこそ、選択は一つしかなかった。
現場の顔だけは、今も残っている。
それだけでいいと思っている自分がいる。
だから歩ける。
まだ、歩けてしまう。
――いや。
まだ終わっていないのかもしれない。
つづく。




