第二十三章 アドラー心理学
五十歳を過ぎて、私はようやく立ち止まり始めていた。
ずっと走ってきた。
会社のため。
部下のため。
お客様のため。
そう思っていた。
だが現実には、怒り続けていたのかもしれない。
不正に。
理不尽に。
評価に。
組織に。
「なぜ分からない」
「なぜ正しいことが通らない」
そんなことばかり考えていた。
正直、疲れていた。
そんな時だった。
私はアドラー心理学に出会った。
最初は半信半疑だった。
自己啓発のようなものだろう。
そう思っていた。
だが読んでいくうちに、妙に胸に刺さる言葉があった。
“課題の分離”
その瞬間、頭を殴られたような感覚になった。
私は今まで、他人の課題まで背負い込んでいたのだ。
部下がどう思うか。
上司がどう評価するか。
会社がどう判断するか。
全部、自分でどうにかしようとしていた。
だから苦しかった。
だが本来、それは他人の課題だった。
自分が誠実にやる。
自分が信じる仕事をする。
そこまでは自分の課題。
だが、それをどう評価するかは他人の課題。
私は、その境界線がなかった。
全部抱えていた。
だから、怒る。
だから、壊れる。
そしてもう一つ、刺さった言葉があった。
“他者貢献”
私は、会社と戦っているつもりだった。
だが本当は、
「認められたい」
「正しいと思われたい」
という承認欲求だったのかもしれない。
それに気づいた時、少し恥ずかしくなった。
部下のためと言いながら、
どこかで自分の正義を証明したかった。
だから承知できなかった。
だからぶつかった。
もちろん、今でも間違っていたとは思わない。
不正は嫌いだ。
数字だけ追うのも嫌いだ。
だが、戦い方は下手だった。
もっと相手を理解し、
もっと経営側の苦労を知り、
もっと判断を軽くしてやるべきだった。
私はずっと、
「分かってくれ」
ばかりだった。
だが組織で上へ行く人間は逆だった。
“相手を楽にする”
そこが違った。
アドラー心理学には、
人が幸福になるための要件のような考え方があった。
自分を受け入れること。
他者を信頼すること。
そして他者へ貢献すること。
私は、そのどれも中途半端だった。
自分を認められず、
他人を信用せず、
貢献と言いながら見返りを求めていた。
だから苦しかったのだと思う。
もっと早く知っていれば――
そう思わないわけではない。
だが、若い頃の私は、きっと理解できなかっただろう。
勝ち負けにこだわり、
評価にこだわり、
正しさに執着していた。
人は、痛みを知らないと変われない。
結局、悪ハゲも。
成り上がりも。
あの常務も。
私にとっては必要な存在だったのかもしれない。
あいつらがいなければ、私は一生、自分を疑わなかった。
自分は正しい。
会社が悪い。
そう言い続けて終わっていた気がする。
だが五十歳手前になって、ようやく少し分かった。
会社は変えられない。
他人も変えられない。
変えられるのは、自分の立ち振る舞いだけなのだ。
そして私は、ようやく“承知しました”の意味を、少しだけ理解し始めていた。




