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聖女はすべてを救えない  作者: 右京寺
第3章

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隻腕隻脚の男

レイノルド様が嵐のように王都へ急ぎ帰路に就いてから、私たちは不穏な気配を肌に感じながらも、王宮や王都の様子を探りつつ、表面上は穏やかな日常を過ごしていた。

しかし、王宮側は相当な混乱に陥っているのか、あるいは徹底的な情報規制を敷いているのか、アルベルト達の情報網をもってしてもなかなか確かな情報は集まってこなかった。


(エレオノーラに手紙を出してみたけれど、返事はまだ来てない…。大丈夫なのかしら…)


それでも、領都に出入りする石鹸の仕入れ商人や旅の者たちから、断片的な『噂』だけはポツポツと集めることができた。


「なんでも、見たこともない艶やかな『黒髪の聖女』が現れたらしいですよ」

「王宮の最奥で、王族や高位貴族たちに物厳重に囲われているとか……」


どれも詳細が判然としない噂話ばかりだったけれど、「黒髪」というワードを聞いた瞬間、私の背中にツッと冷たいものが走った。


(黒髪の聖女……。この世界の人間の髪色(金、銀、茶、赤、青など)を考えても、黒髪は明らかに異質。やっぱり、前世の日本か、それに近い世界から召喚されたんだわ……)


王宮が彼女をどう扱うつもりなのか、考え出せばキリがなかったけれど、遠い王都のことに今の私が直接手を貸す術はない。


「王宮は情報を完全に握り潰すつもりなのか……。考えても仕方ないわね。今は、私の目の前にある仕事をきっちりこなすだけよ」


私は小さく頭を振って思考を切り替えると、いつも通り騎士たちの朝の訓練を見て回るために、訓練所へと足を運んだ。

活気ある掛け声が響くグラウンドの隅には、私が立ち上げた『リハビリ専門スペース』がある。怪我や後遺症に苦しむ元騎士たちが、私の考案したプログラムに沿って懸命に身体を動かしている様子を、私はじっくりと観察していく。


――その時だった。

ふと、リハビリスペースから少し離れた、陽の当たらない塀の影に深く腰掛けている一人の男性に気がついた。


(……あら? 初めて見る顔ね)


活気あふれる訓練所の喧騒から切り離されたように、陽の当たらない塀の木陰に、一人の男性がひっそりと腰掛けていた。

年齢は50代半ばを過ぎたあたりだろうか。少し白髪の混じった髪に、無精髭。一見すると、どこにでもいるくたびれた中年男性のようにも見える。――だが、彼の身体を視界に捉えた瞬間、私の足は自然と止まっていた。

彼の右腕は、肩の根元から。そして左足は、太ももの付け根から――それぞれ、無惨にも欠損していたのだ。


(……っ。なんて、凄まじい大怪我を乗り越えてきたの……)


前世で多くの重症患者を見てきた看護師として、視線が釘付けになる。

対角線上の二肢を根元から失うほどの重傷だ。並の人間であれば、出血性ショックや感染症でその日のうちに命を落としているか、生き延びたとしても絶望のあまり寝たきりになり、筋肉が衰えきっていてもおかしくない。

それなのに、彼は違った。

衣服の上からでも分かるほど、残された左腕や右足、そして何より身体の軸となる『体幹』の筋肉の引き締まり方が、一般の人間とは明らかに一線を画している。長年、血の滲むような鍛錬を積み重ねてきた者だけが持つ、独特の骨格と威圧感。世を捨てたような佇まいの中に、底知れない凄みが重々しく沈殿していた。


(元騎士なのは間違いないわね。それも、ただの騎士じゃない。かつては一軍を率いていたような、相当の実力者だわ……)


手足を失ってなお、その身に宿る武人としての圧倒的なオーラ。

普通の人なら気圧されて声をかけることすら躊躇うような冷たい雰囲気をまとっていたが、私は恐怖よりも先に、純粋な医療への好奇心と、彼に対する深い敬意で満たされていた。


私は手にしたカルテの木札を胸に抱え直すと、塀の影で静かに佇むその元騎士の男性に向かって、迷うことなく真っ直ぐに足を進めた。



私は男の数歩手前で足を止め、救護部隊長としての礼儀正しい一礼を捧げた。11歳という子供の身体だけれど、声のトーンは意識して落ち着かせ、一人の大人として響かせる。


「こんにちは。こちらの騎士団で救護・治癒部隊の隊長を拝命しております、シェラと申します。……こちらに来られるのは、初めてでしょうか?」


私の声に、塀の木陰で静止していた男の身体が、微かに揺れた。

男はそれまで、グラウンドの隅で懸命にリハビリに励んでいる元騎士たちへと向けられていた視線を、ゆっくりと私の方へ移動させた。

間近で見るその瞳は、すべてを見透かすように鋭く、そして冷たい。


「……これは、どのような意味があるのか」


低く、掠れた声が男の唇から漏れ出た。

リハビリに汗を流す者たちへと再び向けられたその視線は、極めて真剣だった。ただの冷やかしや侮蔑ではない。しかし、その瞳の奥底には、まるで底なしの沼のような、深く昏い『絶望』がべっとりと見え隠れしていた。


手足を負傷し、剣を振るうことすらできなくなった男たちが、泥臭く汗を流して何を目指しているのか。

五体を満足に動かせなくなった元騎士が、生きて、あがくことに、一体何の意味があるのか――。

それは目の前の元騎士たちへの疑問であると同時に、自らの『存在理由』を激しく見失い、暗闇の中で立ち尽くしている彼自身の、血を吐くような問いかけそのものだった。


前世でも、私はこういう目を何度も見てきた。

事故や病気で突如として身体の一部を失い、「こんな身体になって、これからどうやって生きていけばいいんだ」と、世界のすべてを拒絶するように絶望する患者たちの姿を。

彼らにとって、これまでの自分を失うことは、生きる意味そのものを失うことと同義なのだ。


(……やっぱりね。この人は、ただ身体の傷を負っているだけじゃない。心が、あの時のままで止まってしまっているんだわ)


私はカルテの木札を抱えた手に少しだけ力を込めると、男の絶望に満ちた視線を真っ向から受け止め、小さく、けれど温かい微笑みを浮かべた。


「意味、ですか。――それを決めるのは、あそこで汗を流している彼ら自身ですよ」


私の静かな言葉に、男の双眸がわずかに見開かれた。


私の静かな言葉が、二人の間の空間にぽつりと落ちた。

沈黙が周囲を包み込む。訓練所から聞こえる激しい掛け声が、なぜか遠くのことのように思えるほど、私たちの周りには奇妙な静寂が満ちていた。

男はしばらくの間、私の言葉を咀嚼するように黙り込んでいたが、


「――フッ」


不意に、喉の奥を鳴らして、自嘲気味に鼻で笑った。


「……なるほど。さすがは『聖女』と呼ばれるだけはある。実に耳に心地いい綺麗な正論だ」


男の薄い唇が、どこか歪んだ形に吊り上がる。その双眸に宿る光は、私を値踏みしているようでいて、その奥底にあるのは、ひどく冷え切った――けれど、燻るような嫉妬と羨望の炎だった。


「あそこで泥にまみれてあがいている奴らは、まだいい。…また剣を握り、騎士として戦線に戻れる望みが残されている。……だが、俺のように根元から手足を失った『何もできない抜け殻』は、あのがらくたの輪の中に加わることすら許されない」


男は残された左手で、欠損した右腕の袖を、引きちぎらんばかりにギュッと握りしめた。

リハビリに励む元騎士たちを見つめる彼の目は、鋭いと同時に、酷く悲しく、そして――もう二度とあの場所(前線)へ戻れない自分との差に、猛烈な惨めさを抱いていた。


「五体満足で、特別な癒しの力を持つお前のような光の中にいる人間には、この暗闇の底の気持ちなど分からんだろうよ。……あいつらが羨ましくてたまらない一方で、何もできない自分自身に虫唾が走る。そんな奴が、生き恥を晒してあそこに混ざるのが、どれほど惨めなことか」


男の声には、諦めきれない武人としての執着と、すべてを失った者特有の、ドロドロとした絶望が混ざり合っていた。

自分もあの中に混ざりたい。もう一度、泥にまみれてでも鍛錬をしたい。その本音を認めるのが怖くて、「何の意味がある」と突き放すことで、必死に己のプライドを保っていたのだ。


回復していく周りの患者を羨み、妬み、その醜い感情を抱く自分自身に一番絶望して、心を閉ざしてしまう人。

だからこそ、私はその男の「八つ当たり」のような言葉に対しても、一歩も引かなかった。


「……ええ、分かりません。あなたのその苦しみを、私がそのまま代わってあげることはできない。でも――」


私はカルテの木札を抱えたまま、男の絶望と嫉妬に満ちた視線を真っ向から受け止め、その『失われた手足の根元』、そしてそれを支えている健常な筋肉を真っ直ぐに見据えた。


「何もできない、なんて自分の身体を侮らないでください。今でもあなたは、戦うことを、一ミリも諦めてなんていないのではないですか」


私の二の句に、男の身体が今度こそ、弾かれたように硬直した。

図星を突かれたのか、男の目が驚愕に大きく見開かれる。

だが、それも一瞬のことだった。

男はゆっくりと、私に向けられていた鋭い視線を落とし、地面に這う自分の影を見つめた。

先ほどまで執務室をも震わせそうなほど張り詰めていた武人の殺気が、嘘のように霧散していく。代わりに彼を包み込んだのは、酷く冷ややかで、静かな、自分自身への嫌悪だった。


「……フッ、はは……。諦めていない、か」


男の唇から漏れたのは、力のない乾いた笑いだった。

声を荒らげるでもなく、ただ自分の残された左手を見つめながら、ぽつりと呟く。


「ただの……悪あがき(・・・・)だ」


その声のトーンは、先ほどまでの攻撃的なものとは打って変わって、ひどく低く、弱々しかった。


「毎朝、目が覚めると、あるはずのない右腕が疼くんだ。剣を握れと、身体が勝手に覚えている。だから、無意識に身体を強張らせ、動かない手足を動かそうと躍起になってしまう……。だが、そんなものはただの未練だ。終わった男の、惨めな悪あがきに過ぎんよ」


男はふぅ、と深く、重いため息を吐き出した。

熱の引いた瞳でリハビリをする元騎士達を見つめ、どこか遠くを見るように目を細める。


「子供相手に、大人気ない牙を剥いたな。『聖女様』を前に、己の醜い嫉妬を並べ立てるとは……我ながら、焼きが回ったものだ」


男は壁に背を預けたまま、それ以上私を拒絶するでもなく、ただ静かに、自分の殻に閉じこもるように視線を逸らした。

その姿は、かつてどれほど輝かしい武功を立てたとしても、今の自分には何の価値もないと思い込んでいる『傷ついた患者』そのものだった。


前世の現場でも、こうして一度感情を爆発させた後に、ガックリと気力を失ってしまう患者は多かった。

ここで無理に励ましても、彼らの心には届かない。

だから私は、彼のその「悪あがき」という言葉を、否定も肯定もしなかった。

私は男の隣へ、一歩だけ歩み寄った。



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