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聖女はすべてを救えない  作者: 右京寺
第3章

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42/50

詰め込み令嬢教育

一週間ほどが過ぎ、ヴァランシエール公爵親子の視察が数日後に迫ったある日のこと。

私は再び、重厚な空気の流れる執務室に呼び出されていた。


「シェラ。ユーリとの養子縁組が正式に成立した。……晴れて、お前は今日からケラー男爵令嬢だ」


デスクの向こう側、アルベルト閣下が事も無げに告げた。その手には、既に受理されたことを示す公的な紋章の入った書類がある。


「……えっ、もう手続きが終わったのですか?」


私は思わず驚きの声を上げた。

前世の役所仕事もそれなりに時間がかかるものだったが、この世界でも貴族の身分に関わる手続きがわずか一週間で終わるなんて、聞いたことがない。

私は、執務室にいる3人の男たちを順番に見渡した。

アルベルト閣下は、どこか楽しげに口角を上げ、ニヤリと笑った。


「こういう時のための辺境伯家だ。特権というものは、使うべき時に使ってこそ意味がある」


「……後の法的なゴタゴタは避けたかったからね。閣下には少しばかり、各方面へ『話』を通していただいた」


傍らに立つユーリが、いつもの穏やかな笑みの中に、隠しきれない「黒い笑顔」を滲ませている。


(この人、やっぱり怒らせたら一番怖いタイプだ)


「騎士団の方には、こちらから周知徹底しておく。余計な混乱は起こさせん」


壁に寄りかかったヴォルクスが短く、だが頼もしく請け負った。


「救護部隊には自分から伝えておけ。お前の部下たちだ、お前の口から聞くのが一番だろう」


「……わかりました」


私はひとつ頷き、念を押すようにヴォルクスを見た。


「ヴォルクス様。騎士の皆さんには、今まで通りでいいと伝えてください。突然態度を変えられたり、かしこまられたりすると、非常に仕事がしにくいので」


「ははっ、お前らしいな。わかった、連中には『中身は変わらんから、下手に気を遣って仕事の邪魔をするな』と言っておこう」


ヴォルクスは、私の懸念を笑い飛ばしてくれた。

しかし、次にアルベルト閣下から発せられた言葉は、笑い飛ばせるような内容ではなかった。


「さて、シェラ。これからは『男爵令嬢』としてのマナーを勉強してもらう。……もちろん、救護部隊の仕事が最優先だが、一日のうち数時間は講師をつける」


「マナー、ですか……」


(……令嬢教育って、一体どんなことをするんだろう。本を頭に乗せて、ヒールで歩く練習をさせられたりするのかしら?)


前世のドラマや漫画で見た、お決まりの特訓風景を想像してしまい、思わず遠い目になる。


「……承知いたしました。できる限り、頑張ります」


真面目に返事をしたが、内心は「回診の時間、削らなきゃいけないかな……」という事務的な懸念でいっぱいだった。



その日を境に、救護所での回診や視察に合わせての石鹸の作業確認といった業務の合間に、詰め込まれるような令嬢教育がスタートした。


慣れないコルセットで締め上げられ、着慣れないドレスの裾を捌きながら、高いヒールで美しく歩く練習。

座学の方も多岐に渡り、社交界でのマナー、銀食器の使い分け、果ては他家の複雑な紋章学と家系図、利害関係の暗記。後々は、領地の税収に関する事務まで勉強する予定だという。


(……男爵令嬢のような下級貴族でも、こんなことまで学ばなければならないのね。貴族社会って、想像以上に過酷だわ……)


前世で膨大な薬の名前や副作用、複雑な術式の手順を暗記してきた私にとって、座学はむしろ得意分野だった。講師が驚くほどの速さで知識を吸収していく私に対し、しかし、どうしても克服できない最大の問題があった。


「シェラ様。……もっと優雅に、ゆったりと歩いてください。ここは戦場ではありません。……いえ、ある意味では戦場なのですが、少なくとも急患は運ばれてきておりませんよ」


鏡張りの練習室で、講師の厳しい声が飛ぶ。

私の中では、これでも精一杯ゆっくりと歩いているつもりなのだ。しかし、それでも講師の目には「早すぎる」と映るらしい。


(亀の方がまだ早いんじゃないかしら……。これでは急変した患者の元に辿り着く前に、手遅れになってしまうわ)


看護師として、一分一秒を争う現場で「無駄のない最短の動き」を骨の髄まで叩き込まれてきた私にとって、この「あえて時間をかける動き」は、生理的な拒絶反応に近い違和感がある。


「いいですか、シェラ様。貴族女性というのは、常に美しく、決して隙を見せないものです。何があっても『余裕』を見せる。それが相手に対する最大の牽制になるのです」


「……はい」


私は深く溜息をつきたい衝動を抑え、腹筋に力を込めた。

講師の言う「戦場」で生き残るための装備だと思えば、これもまた一種の訓練だ。


(……これは、広大な庭園を散策している蝶の動き。……落ち着け、私)


蝶の優雅さ、と自分自身に無理やり言い聞かせる。

私はドレスの裾をふわりと揺らし、一歩を踏み出した。



「……シェラは、随分と飲み込みが早いようで。講師も驚き、手放しで褒めていましたよ」


夜の静寂が包み込む執務室に3人の男たち。


沈黙を破ったのは、書類に目を通していたユーリだった。瞳を和らげ、彼は続ける。


「座学に関しては、新しい知識をまるで乾いた砂が水を吸うように、湯水のごとく飲み込んでいくと報告を受けています。……男爵令嬢が必要とする範疇を、とうに超えた教養までも、ね」


ユーリはわざとらしくデスクの奥に座るアルベルトを静かに見つめた。

アルベルトは表情を変えず、手元のペンを置いた。


「……覚えておいて損はないだろう。知識があれば、それだけ身を守れる局面も増える。ただ、それだけのことだ」


「……そういうことにしておきましょう」


ユーリは追求するのをやめ、意味深な笑みを浮かべて肩をすくめた。


「知識はともかく、ドレスで歩くのには相当苦労しているようですがね」


壁に背を預けたヴォルクスが、愉快そうに鼻を鳴らした。


「ああ、あれね」


ユーリが思い出したようにクスクスと喉を鳴らす。


「先ほど様子を見に行ったが、シェラは真顔でこう言っていた。『あんなにゆっくり歩いていたら、間に合うものも間に合いません。亀の方がまだマシです』と」


「……ははっ! あいつ、仕事のことしか考えてないのか」


ヴォルクスが堪えきれずに笑い声を上げる。


「救護部隊の隊長殿を淑女に仕立て上げるのは、魔獣の群れをなぎ倒すより骨が折れそうだな」


「…………」


男たちの軽口を静かに聞いていたアルベルトの唇の端が、わずかに吊り上がった。


「それでいい。……着飾ることに夢中な女なら、代わりはいくらでもいる」


アルベルトは、暗い夜の闇が広がる窓の外を見つめた。

ヴァランシエール公爵親子の視察は目前に迫っていた。


男爵令嬢となったシェラは、令嬢教育を詰め込まれます。暗記は得意ですね。術式暗記がするので慣れてますね。

下級貴族令嬢の教育を超えてるのは何故でしょうか笑



よろしければ、お手隙の際にリアクションや評価をぽちっとよろしくお願いいたします。

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