ふたつの知らせ
その日の朝、私の部屋の前には、目も当てられないほど泣きじゃくるカシムさんの姿があった。
「シェラ様っ、私、私は……っ! 無念です、無念すぎて塵になりそうです……っ!」
「カシムさん!? どうしたんですか、そんなに泣いて。どこか怪我でも?」
何事かと、彼の四肢に外傷がないか、歩行に違和感がないかを瞬時に確認する。スカイブルーの瞳に魔力を込めれば、彼の血管を流れる魔力の循環は極めて良好、どこも異常はない。
「……任務で、長期間お側を離れることになりました……。これではシェラ様の護衛(と観察)ができないではありませんか……!」
「任務なら仕方ありません。騎士団の精鋭として、しっかり頑張ってきてください」
淡々と、「健康に気をつけて」という意味を込めて励ますと、カシムさんは急に顔を上げ、涙を拭って私の手を握らんばかりの勢いで身を乗り出した。
「……分かりました。シェラ様がそう仰るなら、光の速さで片付けて、這ってでも戻ってまいります! 」
嵐のような勢いで走り去っていく背中を見送り、私は小さくため息をついた。相変わらずの信奉者ぶりに少しだけ呆れつつ、アルベルト閣下に呼ばれていることを思い出し、執務室へと急いだ。
「お待たせして申し訳ありません、閣下」
重厚な扉を開けると、室内にはアルベルト、そしてユーリとヴォルクスの三人が揃っていた。辺境伯領の「中枢」とも言える顔ぶれだ。
「いや、朝早くからすまない。座ってくれ」
デスクで指を組むアルベルト閣下は、険しい表情をしていた。
「二つ、知らせておきたいことがある」
閣下はそう前置きし、いつもの冷徹なトーンで話し始めた。
「一つは、魔の森のことだ。……2年前にお前が私を救った時から、森の深部には得体の知れない『澱み』があった。前回の討伐でその確信を得たが、詳細な調査ができていなかった。そこで今回、精鋭による調査隊を出すことにした。救護部隊からハインリヒも同行させる」
「……その中に、カシムさんも?」
「ああ。あいつの足なら、危急の際の伝令としても最適だ。実力も申し分ない」
カシムの朝の様子を思い出し、納得した。
「かしこまりました。十分準備させます。異常の原因が分かれば対処を考えられますね……それで、二つ目は?」
私が問うと、アルベルト閣下の顔が、今度は「嫌悪感」に近い色に染まった。
彼は椅子に深くもたれかかり、心底面倒そうに、深い、深い溜息をついた。
「……二つ目だが。王都のヴァランシエール公爵家から書状が届いた」
その名前が出た瞬間、ユーリの表情までもが、わずかに強張るのが分かった。
「公爵の娘が石鹸に興味を持ったらしい。お前の作った石鹸と疫病の減った領地の視察だそうだが……実際はお前の…『聖女』の視察だろうな」
閣下はそこまで言うと、濃い金の目でじっと私を射抜いた。その瞳には、領主としての警戒心がこもっている。
「私の、視察……ですか」
私の言葉に、それまで壁に寄りかかり黙っていたヴォルクスが、重い口を開いた。
「ああ。石鹸が広まると同時に、お前の噂が密かに……だが確実に広がっているのは間違いない。……ここ数年、この領地の死者数が劇的に減っていることも、王都の耳聡い連中には格好の餌食だろうよ」
ヴォルクスの低く、警告を含んだ声に、私は少し俯いた。
ただ目の前の命を救い、衛生環境を整えてきた。それが「異常な成果」として外の世界に映っていることに、今の今まで無頓着すぎたのかもしれない。
すると、デスクの奥で組んだ指に顎を乗せていたアルベルト閣下が、ゆっくりと口を開いた。
「シェラ。……お前をこの領地から出すことは、一切考えていない」
濃い金の瞳が、射抜くような鋭さで私を捉える。
「ここは辺境伯領だ。平時のいざこざであれば、ほとんどの貴族からの介入は私が防いでみせる。……だが、我が家より格上の家門や、王宮がお前の『平民』という立場を利用して強引に介入してくれば、こちらとしても防ぎようがなくなる。……ゆえに、手立てを早急に考える」
重苦しい沈黙が、執務室の空気を支配した。
閣下の言葉の裏にある「手段を選ばない」という決意が、肌に刺さるようだ。
その沈黙を破ったのは、傍らに立つユーリだった。
「シェラ。……『身分』という鎖に、君を縛り付けることになる可能性が高い。不自由を強いることになるかもしれない。……それでも君は、アルベルト閣下、ひいてはこの領地のために、変わらず手を尽くしてくれるか?」
ユーリの静かな、しかし覚悟を問うような問いかけ。
私は、目の前にいる3人の男たちの目を見据えた。
29歳の精神を持つ私にとって、身分とは社会的な役割の一つに過ぎない。もし、その看板を背負うことで領地・領民の発展に繋がるならば。
「……私は、この領地の基盤となると閣下に誓いました。そのために必要であれば、身分だろうと何だろうと構いません」
迷いのない私の答えに、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
アルベルトが、ほんの少しだけ、安堵したように息を吐いたような気がした。
大きな嵐がやってきそうな感じになりました。
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