閑話 スカイブルーの残影
グレイアム辺境伯館の寝所は、静夜の静寂に包まれていた。
だが、その空気は張り詰め、焦燥に満ちている。
「……ありえん。これは、一体……」
アルベルト・ヴァン・グレイアム。王国北端、魔の森に隣接するグレイアム辺境伯領領主。
そこは、建国以来、押し寄せる魔物から国を護る「盾」としての役割を担ってきた。辺境伯としてこの地の盾を担う男の治療に当たっていた癒し手、ユーリ・フォン・ケラーは、その老顔を驚愕に歪めていた。
瀕死の状態で担ぎ込まれたアルベルト。
報告によれば、右肩から腹部にかけての裂傷、大腿の血管断裂。本来なら、邸宅へ運ぶ途中で失血死していてもおかしくない重傷だった。
だが、ユーリが診察した時、アルベルトのバイタルは、微弱ながらも驚くほど「安定」しており、出血も止まっていた。表面の傷は軽く閉じてあるだけであったが。
「ユーリ殿、何が起きているのですか。閣下の命は……」
副団長のヴォルクスが、血の気の引いた顔で問いかける。
「……命に別状は、ない。だが、その理由が分からん」
ユーリは、アルベルトの革鎧を切り裂き、その創部を魔力視しながら、声を震わせた。
大腿部に巻かれた、ボロボロのエプロンの切れ端。魔法ではない、純粋な物理的圧迫。そして、その傷口の奥に、ユーリは「それ」を見つけた。
断裂していたであろう大腿の太い血管。
その断端同士が、寸分の狂いもなく癒されていたのだ。
「……血管を、癒す……?」
ヴォルクスが、呆然と呟く。
「そうだ。我々『癒し手』は、魔力を光に変え、患部全体に『治れ』と祈りを捧げる。……だが、この者は違う。血管一つ、神経一本の走行を完全に把握して繋ぎ直している。……我々の知る治癒魔法とは、根本が、違う」
その時、寝台の上のアルベルトは、深い闇の底で、あの瞬間の光景を反芻していた。
(熱い……いや、冷たいのか……?)
意識は混濁し、感覚は麻痺していた。
だが、死の淵で自分を見下ろしていた「影」だけは、脳裏に焼き付いて離れない。
――掠れる視界に揺れた、銀灰色の髪。そして、その奥から覗くスカイブルーの瞳。
それは、死にゆく者へ向ける慈悲の眼差しではなかった。
神に縋るような祈りの色も、高貴な者への敬意も、そこには微塵も存在しない。
ただ、壊れた部品をどう繋ぎ合わせるかだけを思考する、氷のように透き通った、非情なまでの「理知」の光。
「動かないで。今、止血するから」
高い声が、鼓膜を震わせた。
直後、体の中を魔力が這い回るような、未知の感覚が突き抜けた。
普通の癒しが与える、温かなまどろみではない。まるで自分の肉体を精密な地図として読み取られ、勝手に書き換えられていくような、支配的な侵食感。
(誰だ…俺を、何を診て……)
アルベルトは、その冷徹な青い瞳から目を逸らすことができなかった。
指先を動かすたびに、漏れ出していた命の灯火が、強引に器へと押し戻されていく。死神が伸ばした手を、淡々と、しかし暴力的なまでの確実さで叩き落としていた。
「……う、うう……」
アルベルトは呻き声を上げ、意識を引き戻した。
頭と身体の重さで、あのスカイブルーの瞳の残像が、鮮烈に明滅する。
「閣下! お目覚めで!」
「……ヴォルクス」
アルベルトは、重い瞼を持ち上げ、天井を睨みつけた。
喉は焼けつくように渇いているが、その瞳には、かつてない執念の炎が宿っていた。
「……森の、周辺を調べろ。あの付近にある村、教会、すべてだ」
「はっ。……閣下、閣下を助けたのは……」
「……スカイブルーの瞳に、銀…灰色髪、の…高い声だった」
「女性ですかね?…あの森に1番近い教会の癒し手は男性だったような…?」
ヴォルクスは指を顎に当て考え込む。
アルベルトは、自分を見るスカイブルーの瞳を思い出して、唇を歪めた。
あの時、自分の命の主導権を完全に握っていた、あの冷徹な双眸。
辺境を背負う自分を「ただの人間」として扱った、あの無機質なまでに誠実な瞳。
(一切迷いのない判断と手つき…。幼いように見えたが、果たして、聖女か魔女か…。)
「……必ず探し出してやろう」
アルベルトの声は低く、だか確かな熱を帯びていた。
そんなアルベルトの宣言に、ユーリは静かに十字を切った。




