聖女はすべてを救えない
数日後、ユーリ様からようやく「ベッド上安静」の完全解除を言い渡された私は、弾かれたように執務に戻った。一週間以上の空白は、プロとしての責任感に火をつけるには十分すぎる時間だった。
私の仕事は、単に傷を塞ぐことではない。その後の経過を見守り、彼らの「日常」を完全に取り戻すことにある。
まずは、あの激戦で治療を施した騎士たちの元を回った。訓練場に顔を出すと、私を見つけるなり雪崩のように駆け寄ってきた。
「シェラ隊長!お体の具合は!?」
「この通り、足も元通り動きます!」
口々に叫ぶ彼らの顔色は良く、目で視ても異常は見られない。
「……良かった。皆さん、本当に元気そうで」
胸の奥から込み上げる安堵感に、自然と目尻が熱くなる。彼らの屈託のない笑顔とお礼の言葉は、何よりの良薬だった。
「無理だけはしないでくださいね」と私が厳命すると、彼らは一斉に居住まいを正し、胸に手を当てて深く頭を下げた。
「もちろんです、我らが聖女」
「……。……だから、聖女はやめてくださいってば」
苦笑する私をよそに、彼らの瞳には、命の恩人を超える「崇拝」の念が混じり始めていた。
次に向かったのは、石鹸作りの工房だ。
扉を開けた瞬間、中心メンバー三人が持っていた道具を放り出して駆け寄ってきた。
「シェラ様!」
「ああ、本当に……ご無事でよかった!」
彼女たちは私の手を握りしめ、ボロボロと大粒の涙を流して喜んでくれた。私が討伐にでて、その後昏睡していたという話は、この屋敷の隅々にまで衝撃を与えていたらしい。
驚いたことに、アルベルトが気を利かせ、孤児院のレラとの連絡網を直接繋いでくれていたのだ。
「閣下の計らいで、レラさんと何度も書簡をやり取りしました。シェラが心配でしたけど、だからこそ頑張ろうって」
差し出された完成品を手に取ると、その滑らかさに目を見張った。原料の配合は極まり、不純物も一切ない、前世の高級石鹸にも劣らない逸品だ。
「……素晴らしいです。これでもっと多くの人の病を予防できますよ!」
私がそう言うと、彼女たちは弾けるような笑顔で「これからも頑張りましょうね!」と力強く頷いてくれた。
そして最後は、アルベルトの診察だ。
執務室の窓際で、アルベルトは眼帯を外し、左目の状態を私に委ねていた。
医学的な視点で見れば、左目の視力は依然として改善していない。指を立てて動かしても、「ぼやけた影が動くのがわかる程度」だ。
しかし、彼がひとたび魔力を流し、その瞳を「魔眼」として発動させた瞬間、状況は一変する。
「……見える。体内を巡る魔力が地図のように鮮明に浮かび上がる」
アルベルトは、そのスカイブルーの瞳を静かに細めた。最初は暴走気味で、見つめられるだけで体に異変が起きていたその力も、驚くべき順応を見せ、今では意図的にオンとオフを切り替えられるまでになっている。
「この力があれば、暗闇の中でも、あるいは幻惑魔法の中でも、私は迷うことなく敵の急所を貫けるだろう」
生活に支障はないかと問えば、彼は「慣れた」とだけ答えた。片目の視界は距離感が掴みにくい。普通なら階段を上り下りするだけでも数週間の訓練が必要なはずなのだが。
「騎士の適応能力というのは、私の想像を超えていますね、素晴らしいです」
感心する私に、側で書類を整理していたヴォルクスが、あきれたように笑った。
「いや、シェラ。普通はそうはいかないよ。この閣下が、不屈の精神と異常なまでの身体能力で、力ずくで慣らしてしまっただけだ。全く、手本にならない人だよ」
ユーリも「全く……部下や身内の心労を考えない、困った御仁だ」と溜息をつきながら、けれどその口元には温かな信頼の笑みが浮かんでいた。
「……ああ、そうだ。シェラ」
ヴォルクス様が思い出したようにポンと手を打ち、悪戯っぽく目を細めた。
「今や城下では、お前のことが『青い瞳の聖女』なんて呼ばれているぞ。今回の討伐での獅子奮迅の活躍や、村で広めた石鹸の効果が、一気に広まったらしい」
「……。……勘弁してください、ヴォルクス様」
私はたまらず両手で顔を覆った。
そんな私の姿に3人は、微笑ましいものを見る目で見つめていた。
その夜、私は自室のバルコニーに出て、一人で夜風に当たっていた。
辺境の夜気はまだ肌を刺すように冷たいが、高揚した頭を冷やすにはちょうどよかった。
見上げる夜空には、あの戦場と同じ星々が輝いている。
私は、アルベルト閣下の左目のことに思いを馳せていた。
騎士たちは私を「聖女」と呼ぶ。カシムさんに至っては、顔を合わせるたびに祈りを捧げんばかりの勢いだ。けれど、その響きが耳に届くたび、私の胸の奥には正体不明の重圧が居座る。
(……聖女なんて、そんな大層なものじゃないのに)
私の知る物語の中の「聖女」なら、枯れた森を浄化し、魔獣を消滅させ、死者をも蘇生させるだろう。 私のように、視力を完全に戻すこともできず、あろうことか領主の瞳を「魔眼」に変質させてしまうような不手際は犯さないはずだ。
「聖女」という言葉が独り歩きし、周囲の期待が膨らめば膨らむほど、見えない重圧に押し潰されそうになる。
私は、夜の闇に溶けていくような細い息を吐いた。
「できることをする。それだけ」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
魔法は万能ではないし、医学と看護の知識も限界がある。
「聖女と言われても、すべてを救えるわけじゃない……」
そのつぶやきは、冷たい夜風にさらわれて消えた。
すべてを救えなくとも、この手が届く範囲の命だけは、泥を啜ってでも繋ぎ止めてみせる。
私の心には確かな覚悟が刻まれていた。
これにて2章は完結です。
3章でまたお会いしましょう。
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