限界値
私は、極限まで研ぎ澄まされた集中力の中にいた。周囲の喧騒も、凍てつく風の音も聞こえない。見えるのは、アルベルト閣下の無残な断面と、そこに走る無数の組織の断片だけだ。
まずは主要な血管――上腕動脈を確保する。氷点下の冷気が血管を収縮させていたおかげで、皮肉にも出血は抑えられていたが、それは細胞の壊死との時間戦を意味していた。
私は自分の魔力を血管壁を縫い合わせるように流し込んでいく。
(大丈夫……!)
祈るように魔力を流し込むと、遮断されていた血流が、アルベルトの右腕へと流れ込んだ。青白く陶器のようだった指先に、微かな、けれど確かな生の色――淡い赤みが差す。
次に、粉砕された上腕骨。複雑な骨折面をパズルのように組み合わせ、骨膜の再生を促す。そして、最も困難な神経の導通だ。
正中神経、尺骨神経、橈骨神経。
肉眼では判別しがたい細い神経を、「眼」を使って手繰り寄せ、一本ずつ本来の道筋へと繋いでいく。わずかでも狂えば、彼は二度と剣を握れなくなる。その重圧が、冷や汗となって背中を伝った。
そのあまりに精密で、執念すら感じる異様な癒しの儀式に、いつの間にか集まっていた騎士たちも、呼吸をすることさえ忘れたかのように固唾を呑んで見守っていた。
筋肉の縫合と皮膚の接合を残すのみとなった時、ようやくユーリ様、ハインリヒ、ルシアンの三人が到着した。
「……本当に繋げたのか…、あの状態から」
ユーリ様が、戦慄を隠しきれない声で呟く。
「はい……血管、骨、主要な神経は繋ぎ直しました。……ですが、私の魔力はもう……」
視界の端がチカチカと明滅する。魔力が少なくなっているサインだ。
「無理をするな、あとは私が引き継ごう」
ユーリ様の提案に頷き、私は這いずるようにしてアルベルトの顔面側へと移動した。
アルベルトの顔を見たユーリが、喉を鳴らして絶句する。
「その、左目は……まさか…。シェラ、流石に君でも無理だ。しかも魔力は相当削られている」
「……機能がどこまで戻るかは賭けです……
それでも、できる限りの構造は修復します」
私は、ユーリの見つめる。
この世界において、損傷した眼球は「失われたもの」として諦めるのが常識だ。せいぜい傷を塞ぎ、義眼を入れるのが関の山だろう。私の脳内には前世で学んだ精緻な解剖図と手術で見た知識がある。
私は左目に残る全魔力を注ぎ込んだ。
光を屈折させる角膜、絞りの役割を果たす虹彩、レンズを支える毛様体と水晶体……。そしてその奥、光を受け止める網膜と硝子体。周囲に走る血管。
細胞の層一つひとつを、顕微鏡で覗き込むように繊細に、慎重に積み上げていく。
そして最大の問題――視神経。
脳へと情報を運ぶ、何百万本もの細く脆い「光の回路」。一本ずつを完全に繋ぐことは、不可能だ。
私はせめて、その回路が最短距離で再び結びつくよう、神経の鞘を誘導し、濃密な癒しで隙間を埋めていく。
(……閣下が目を覚ました時、せめて光の粒だけでも感じてほしい)
すでに頭痛は耐え難いほど激しくなり、指先は自分の意思とは無関係に震えていた。
私は救護部隊の隊長。私が倒れれば、この戦場で流された血は無意味になる。
その責任感だけが、崩れ落ちそうな意識を繋ぎ止める細い糸だった。
「あと……ちょっと……」
皮膚を閉じようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
天と地が逆転するような感覚。しかし、地面に叩きつけられる直前、逞しい腕が私の体を力強く抱きとめた。
「そこまでだ、シェラ! もういい、十分だ!それ以上は!」
ヴォルクス様の、泣き叫ぶような声。
遠くなる意識の中で、私は最後の魔力を絞り出し、閣下の顔面神経を整え、皮膚の傷跡を最小限に抑えるよう癒しをかけた。
「……終わり、ました……」
唇が、うまく動かない。私はヴォルクス様の胸に顔を埋めたまま、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「どこまで、見えるかは、わかりません……。でも……起きたら、瞳孔の反応を、確認して……。それから……閣下は……深刻な低体温症です。……ゆっくり、暖炉や……魔法の微弱な熱で……時間をかけて温めて……。一気に……上げたら……心臓が止まるから……ダメ……ですよ……」
頬に、温かい雫が落ちるのを感じた気がした。
それが彼の涙なのか、それとも私の幻想なのかを確かめる術もなく、私の意識は深い、深い闇の底へと沈没していった。
アルベルトの腕はつながりましたね。
目はどこまで見えているのか、確認しないとわかりません。
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