第三十三話 手
最初に変わるのは、たいてい手だった。
顔は取り繕える。
声も、思ったよりごまかせる。
でも手は駄目だ。
焦っている人の手は、必要以上に強く子どもの衣を握る。迷っている人の手は、何度も同じところを撫でる。どうしていいかわからない人の手は、膝の上で行き場をなくしてしまう。
そして少し落ち着いた人の手は、ようやく“見るための手”になる。
レティシアはその日、朝の門前で、ひどく固い手を見た。
裏門の列の前寄りにいた若い女だ。
腕の中には四つほどの男の子。眠っているというより、熱に浮かされてうつらうつらしている感じだった。女はその子の背を抱えていたが、指先に力が入りすぎて、薄い上着の布がくしゃりと寄っている。
顔は、意外なくらい静かだった。
だが手が、全部を語っていた。
「前へ」
レティシアが小さく言うと、門前にいた父親がすぐに横へずれた。
その動きももう自然だ。
誰かが重そうなら前へ。待てる者は少し下がる。門前にできた列は、いつの間にかそういう手の動きで保たれるようになっていた。
若い女は、前が空いたことにしばらく気づかなかった。
自分の腕の中の子しか見えていないのだろう。
前にいた年配の女が、そっとその肩へ触れる。
「おいで」
その一言ではっとして、ようやく顔を上げた。
「でも……」
「今はその子だよ」
女は唇を噛み、それでもすぐには動けなかった。
見れば、抱いている子の背中をさする手が、ほとんど震えている。
レティシアは門前まで出て、自分から声をかけた。
「一緒に入りましょう」
その瞬間、女の肩がほんの少し落ちた。
許された、と思ったのかもしれない。
中へ入る時、女は何度も「すみません」と言いかけたが、最後まで言葉にならなかった。その代わり、男の子を抱く手の力だけが、少しずつ抜けていく。
西棟の椅子へ座らせると、今度は逆に手の置き場がなくなったらしい。膝の上で何かを握ろうとして、何もつかめず、また子どもの髪を撫でて、それから自分の指先を握る。
マティアスが帳面を開く。
「一番困ってることからで大丈夫です」
今ではずいぶん自然に言えるようになったその言葉に、女は少しだけ目を伏せた。
「……熱が下がらないのも、もちろんなんですけど」
またそこで止まる。
レティシアは男の子の様子を見ながら、静かに待った。
母親の手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「この子、朝に私の手を振り払ったんです」
思いがけない言葉だった。
レティシアは顔を上げる。
「振り払った?」
「嫌だったんじゃなくて、苦しかったんだと思います。でも、それで私……すごく怖くなって」
女は自分の手を見下ろしたまま続けた。
「いつもなら私の手を握るのに、今日は払いのけるみたいで。呼んでも、目も合いにくくて」
その時ようやく、彼女が何に怯えていたのかがはっきりした。
熱の数字ではない。
吐いた回数でもない。
“この子の手が、自分から離れた”と感じたことだ。
それは母親にとって、理屈よりずっと恐ろしい。
「名前は?」
「フィルです」
「お母さんは?」
「ナディア……です」
「ナディアさん」
レティシアはできるだけ落ち着いた声で言う。
「手を振り払ったように感じたのは、たぶん苦しくて、身体が思うようにいかなかったからです」
ナディアの指先がぴくりと動いた。
「あなたを嫌がったわけではないと思います」
その一言で、彼女の目に涙が浮かんだ。
レティシアはフィルの額と頬、唇の乾き、反応を確かめる。熱は高い。だが完全に沈んでいるわけではない。呼びかければ、少し遅れてまぶたが揺れる。口元は乾いているが、全く水を受けつけないという感じでもなさそうだ。
「少しずつ、口を湿らせましょう」
そう言って布を取ろうとすると、ナディアの手がすぐに伸びた。
「私がやってもいいですか」
その問いに、レティシアは頷く。
「はい。ゆっくりで大丈夫です」
ナディアは濡らした布を受け取ると、最初はぎこちなく、それから恐る恐るフィルの唇へ当てた。
その手つきは固い。
まだ“見守る手”ではなく、“失わないように押さえつける手”に近い。
「力を少し抜いて」
レティシアが言う。
「そう。もう少しだけ優しく」
ナディアは息を止めるようにして、指先の力を緩めた。
フィルの唇が小さく動く。
それだけのことなのに、彼女の目から涙がこぼれた。
「……動いた」
「はい」
「さっきまで、何をしても届かない感じがして……」
「届いています」
そのやり取りを見ていたセラが、トーマの寝台のそばから小さく言った。
「手、こわばるよね」
ナディアが顔を上げる。
セラは少し照れたように笑った。
「うちも最初そうだったから。握りすぎちゃうの」
その言葉に、ナディアは泣きながら、でもほんの少しだけ笑った。
同じだった人がいる。
それだけで、手は少し緩む。
午前のうちに、もうひとつ印象に残る“手”があった。
今度は父親だ。
四十前後の男で、本人ではなく妻のことで来ていた。入ってくるなり帽子を膝の上に置いたが、その縁をずっと親指でいじっている。
「一番困ってることからで」
マティアスが促すと、男は苦笑した。
「それ、列でも言われました」
「皆さん、よく使ってますから」
「ええ。助かります」
男は帽子を見つめたまま言う。
「妻が熱を出して三日で、今日は少し飲めたんです。でも、今度は逆に“これで安心していいのか”がわからなくて」
その不安も、よくわかる。
悪化していく時だけではなく、少し持ち直した時にも人は迷う。
安心していいのか。
まだ見ているべきか。
どこで気を抜いていいのか、わからなくなる。
「今日は何を見てくればよさそうですか」
男はそう聞いた。
その問い方自体が、もう前とは違う。
ただどうにかしてくれではなく、自分が持ち帰るべきものを求めている。
レティシアは帳面の余白に簡単な線を書きながら説明した。
「飲めた量が昨日より増えているか。飲んだあとに吐かないか。呼びかけへの返事が昨日よりはっきりしているか。眠ったあと、起こした時の反応が極端に悪くないか」
男は真剣に聞き、帽子の縁からようやく手を離した。
その瞬間、レティシアは思う。
これだ。
手の動きが変わる時、人の中でも何かが変わっている。
握るしかなかった手が、数える手になる。
震えていた手が、湿らせる手になる。
行き場のなかった手が、記録を指差す手になる。
昼頃、マリアがユリウスのところから西棟へ来た時も、レティシアはその“手”の変化に気づいた。
侯爵夫人は、前なら息子の寝台のそばでただ祈るように指を組んでいた。
今は違う。
記録紙を持つ手が落ち着いていて、言葉と一緒に紙を差し出せる。
「今日は朝に自分で杯を持とうとしたわ」
「本当に?」
「ええ、まだ少し支えたけれど」
そう話しながら、マリアの手は震えていない。
心配がなくなったわけではないはずだ。
でももう、その心配を持ったまま手を動かせる。
それは大きな変化だった。
「ナディアさん」
レティシアは午前の母親へ向き直る。
フィルは少し休んで、今は目を閉じている。口元はさっきよりしっとりしていた。
「もう一度、唇を湿らせてみましょうか」
「はい」
ナディアは今度、自分から布を取った。
さっきよりずっとやわらかい手つきで、息子の口元へ触れる。
フィルのまぶたが少し動き、喉が小さく上下した。
「……飲めるかも」
ナディアの声が震える。
レティシアは匙に少しだけ水を取る。
「ほんの少しです」
ナディアが頷く。
その横顔に、まだ不安はある。
でももう“何もできない人の顔”ではなかった。
少しずつでも、手を動かせる人の顔だった。
午後、裏門の列でちょっとした騒ぎがあった。
初めて来たらしい母親が、泣きじゃくる子を抱いたまま、うまく並べずに立ち尽くしていたのだ。すると、列の途中にいた少年が、おずおずとしながらもその母親へ近づいた。
以前、姉のことで相談に来たあの少年だった。
「前……たぶん前の方がいいです」
声は小さい。
でも、ちゃんと届いていた。
母親が戸惑うと、少年は自分の手をぱたぱた動かして説明する。
「その、抱いてる手、すごく力入ってるから。うちの母さんも、ああいう時は大体急いだ方がよかった」
その言い方を、エルザが後から教えてくれた時、レティシアはしばらく何も言えなかった。
手を見るようになったのだ。
門前の人たちが。
顔色だけではなく、抱き方や握り方まで。
それは医者の診断ではない。
でも、生活の中で覚えた確かな見方だった。
夜、帳面を閉じる前に、レティシアは今日のまとめを書いた。
来訪者の不安、手のこわばり・帽子の弄り・抱き方等に顕著に表れる場面あり。
説明・観察を経て、手の動きが“押さえる手”から“見る手”“湿らせる手”“数える手”へ変化。
門前待機者、他者の手の様子を見て優先順を判断する例あり。
そこまで書いてから、少しだけ考える。
それから、最後に一行を足した。
手の変化は、来訪者の不安の軽減と、関わり方の変化を示す指標として有用。
自分で書いていて、少し文官のようだと思った。
でも本当に、そうだった。
手は嘘をつきにくい。
そして手が変わる時、人は少しだけ自分を取り戻している。
帳面を閉じたあとも、ナディアが息子の唇を湿らせていた手つきが頭に残っていた。
あの手は、朝の門前では固まっていた。
でも今は違う。
怖がりながらでも、ちゃんと届かせようとする手になっていた。
それだけで、今日一日ぶんの意味はあった気がした。




