第三十二話 背中
門前で交わされる言葉が増えるほど、レティシアは人の背中を見ることが多くなった。
顔より先に背中が語ることがある。
ここへ入ってくる前の人は、たいてい背中が固い。肩が上がり、首がすくみ、腕の中の子どもを抱く力が必要以上に強い。あるいは逆に、力を入れすぎていることに自分で気づかず、ただまっすぐに立ち尽くしている。
けれど帰る頃には、その背中がほんの少し変わる。
病が治ったからではない。
まだ熱はある。咳も残る。夜が怖いことだって変わらない。
それでも、“何を見ればいいか”と“何をすればいいか”をひとつでも持てた人の背中は、来た時とは違う。
その朝、最初にレティシアの目に留まったのは、裏門の列の真ん中あたりにいた女の背中だった。
まだ若い。
黒い外套の肩が強く張っていて、腕の中には三歳くらいの女の子がいる。子どもは眠っているのか、ぐったりしているのか、その背中越しではわからなかった。だが母親の立ち方でわかる。あれは、かなり追いつめられている立ち方だ。
「エルザさん」
小声で呼ぶと、エルザもすぐにその背中へ目を向けた。
「ええ。あの方ですね」
「前へ」
「すでに前の方が少しずつ空けています」
見れば、列の前寄りにいた女が、さりげなく半歩横へずれている。そのさらに前でも、老人が杖を引いて壁際へ寄っていた。誰も声高には言わない。けれど背中を見て、皆が先に動いている。
レティシアはその様子に小さく息をついた。
門前が、人の顔色だけではなく背中まで読むようになっている。
それはたぶん、列の中にいる人たちも皆、同じような背中でここへ来たことがあるからだ。
やがてその母親は、気づけば列のかなり前まで来ていた。
本人は何度も振り返り、戸惑いと恐縮を顔いっぱいに浮かべている。
「すみません……」
やはり、そう言う。
「皆さんが待ってるのに」
その時、後ろにいた中年の男が、照れくさそうに頭をかきながら言った。
「うちの時も、前にやってもらったんだ」
母親がはっとして男を見る。
「だから今度はこっちが動くだけだよ」
あまりにも自然な言い方で、レティシアの胸の奥が少し熱くなる。
恩返し、というほど仰々しいものではない。
ただ、前に自分が受け取ったものを、そのまま次へ渡しているだけだ。
けれどそういうものが、一番強い。
中へ通された母親は、椅子へ座った瞬間に膝から力が抜けそうになっていた。
腕の中の女の子は、熱でぼうっとしている。目は開いているが焦点が甘く、呼びかけには少し遅れて反応した。
「名前は?」
「ミーナです」
「お母さんは?」
「エルマ、と……言います」
名乗るだけでも息が浅い。
よほど昨夜から張りつめていたのだろう。
「一番困ってることからで大丈夫です」
マティアスが、もう慣れた調子で声をかける。
エルマは何度か唇を動かしたあと、かすれた声で言った。
「この子のことも、もちろんなんですけど……」
そこから先が出てこない。
レティシアは急かさなかった。
こういう時、言えないことそのものが困りごとだったりする。
「……私が、ちゃんと見られてるのか自信がないんです」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
マティアスの筆が一瞬止まり、それから静かに動き出す。
「昨夜、何度も顔を見たんです。熱いし、苦しそうで、水も少ししか飲めなくて。でも、どこまでが“今すぐ来るべき”で、どこからが“まだ家で見ていていい”のか、自分ではわからなくて」
エルマはミーナの髪を撫でながら、ほとんど懺悔のように続けた。
「朝まで待つべきだったのか、でも待って悪くしたらどうしようって、そればっかりで……」
レティシアは女の子の様子を見ながら、静かに頷いた。
背中があんなに固くなるはずだ。
この母親は、病気だけでなく“自分の見方が合っているのか”に怯えていたのだ。
「来てよかったです」
レティシアがそう言うと、エルマの目が揺れた。
「……本当に?」
「はい」
「でも、まだこの子、返事もあるし……」
「ええ。だから今ここで見て、今日このあと何を見るかを決められます」
治る、とは言わない。
大丈夫、とも言わない。
ただ“今ここで見て決められる”と言う。
その方が、この人には必要だと思った。
レティシアはミーナの口元の乾き、反応、熱のこもり方を確かめながら、少しずつ問いを重ねた。いつからか。どれくらい飲めたか。吐いたか。眠れたか。尿は出ているか。
答えていくうちに、エルマの声が少しずつ整っていく。
最初は“怖かった”しかなかったものが、次第に“夜中に二回起きて、その時は返事があった”“明け方は少し遅かった”“朝は水を嫌がった”と、形を持ち始める。
それを見て、レティシアは思う。
人は話しているうちに、少しずつ自分でも見えてくるのだ。
だからこそ、途中で切ってはいけない。
「今日はここで少し休ませましょう」
そう告げると、エルマは深く深く息を吐いた。
そして、ミーナを寝かせたあと、自分の両手を見下ろしてぽつりと言った。
「門のところで、前にいた人が場所を空けてくれたんです」
「はい」
「その時に、後ろの人が“背中でわかる時あるから”って……」
レティシアは目を瞬いた。
「背中で?」
「ええ。私、そんなにひどい顔してたのかと思って恥ずかしかったんですけど」
エルマは少しだけ、泣き笑いのような顔になった。
「でも、顔じゃなくて背中でわかるって言われたら、なんだか変に納得してしまって」
その言い方が、妙に胸に残る。
背中でわかる。
たしかに、あの列ではそういうことが起きていた。
正面から見れば気丈にしている人でも、背中には疲れや迷いや諦めかけた感じが出る。
列にいる者たちは、それを読むようになっている。
なぜなら自分も同じ背中をしていた時があるからだ。
昼前、レティシアは水場で手を洗いながら、ふと自分の背中はどう見えているのだろうと思った。
西棟を歩く時、自分はどんな背中をしているのか。
強く見えるのだろうか。
頼れそうに見えるのだろうか。
それとも、余裕がないのが丸わかりなのだろうか。
前世の自分を思い出す。
夜勤明け、白衣の背中が鏡に映った時、思ったより小さく見えて驚いたことがあった。自分では踏ん張っているつもりでも、身体は正直だ。
この世界でも同じかもしれない。
だから余計に、門前で背中を見る人たちの目が尊く思えた。
午後になって来たのは、見覚えのある父親だった。
以前、妻の息苦しさについて相談に来た男だ。今日は小さな息子を連れている。子ども自身は元気そうだが、父親の顔に前より少し余裕があった。
「奥さんはどうですか」
レティシアが聞くと、男は深く頭を下げた。
「少しずつ持ち直してます。あの日、息の速さを見るよう教えてもらって助かりました」
「それはよかった」
「今日は、その……」
男は息子の肩へ手を置く。
「この子を連れてきたんじゃなくて、列の手伝いをしていいか聞きに来ました」
思わぬ言葉に、レティシアは目を瞬いた。
「手伝い?」
「ええ。朝、通りがかったら、初めて来た人がすごく困ってて。俺、前にここで教わったことなら少しは言えるから」
そこへ息子が、少し得意げに口を挟んだ。
「ぼく、おみずのこと知ってるよ」
父親が苦笑する。
「家で何度も聞いてたもので」
レティシアは返す言葉を少し失った。
列の世話をしたいと、自分から言いに来る人が出るとは思っていなかった。
でも考えてみれば自然なのかもしれない。
この場で助けられた人は、自分にできる形で返そうとする。その返し方が、お金でも特別な力でもなく、列で言葉を渡すことになっているのが、西棟らしい。
「無理のない範囲でなら」
そう答えると、父親はほっとしたように笑った。
「ありがとうございます」
「ただし、自分で判断しすぎないでください。迷ったらすぐ呼んで」
「はい」
そのやり取りを帳面へ書きながら、マティアスが小さく呟く。
「列に立つ人じゃなくて、列を支える人が出てきたんですね」
レティシアは頷いた。
「うん。背中を見て声をかける人が」
夕方、エルマとミーナが帰る頃には、母親の背中は朝とはまるで違っていた。
疲れていることに変わりはない。
子どももまだ本調子ではない。
でも、抱き方が少し楽になっている。必要以上に力で押さえ込むような抱き方ではなくなっていた。
門のところで朝に道を空けてくれた中年の女が、それを見て笑う。
「少し背中が下がったね」
エルマはきょとんとしたあと、自分では見えない場所を意識するように肩を揺らした。
「そう、ですか」
「うん。朝よりいい」
その言い方が、あまりにもさりげなくてよかった。
美談みたいに大げさではない。
でも確かに、見ていた人がいたという感じがする。
夜、帳面を閉じる前に、レティシアは今日のことをまとめて書いた。
門前にて、“背中でわかる”との表現あり。
来訪者の緊張・疲弊を、顔色のみならず立ち方・抱き方・動きで判断し、周囲が優先順を調整する場面あり。
過去来訪者、列の支援を自発的に申し出る。
書き終えてから、その文を見つめる。
背中は、自分では見えない。
だから誰かが見てくれることに意味がある。
西棟の門前では、もうそういうことが起き始めていた。
症状だけではなく、人の背中まで見て、少し先へ通し、少し言葉を添える。
それは医術と呼ぶには地味すぎるかもしれない。
でも、確かに人を救う手つきだった。




