第三十四話 返事
返事があるか。
西棟に来る者たちが、いま一番よく口にする言葉のひとつだった。
熱が高いかどうかより先に。
咳がひどいかどうかと同じくらいに。
吐いた回数を数えるのと並んで。
「返事があるか」が、家で人を見守る時の目安として根づき始めている。
少し前までなら、それはただの不安の言い換えだった。
呼んでもぼんやりしている。
目が合いにくい。
いつもみたいに反応しない。
そういう、うまく言葉にならない怖さを、皆それぞれに抱え込んでいた。
今は違う。
返事があるか、と言える。
それだけで、人は少しだけ自分の見たものを信じられる。
その朝、最初に西棟へ入ってきたのは、痩せた少年と、その背におぶわれた小さな妹だった。
以前にも列で見たことがある顔だ。たしか姉のことで相談に来たことがあった。今日は妹らしい。少女は熱でぐったりしているが、完全に意識がないわけではない。兄の肩へ額を預け、かすかに目を開けている。
「下ろせますか」
レティシアが声をかけると、少年は慎重に妹を椅子へ座らせた。
手際は悪くない。
けれどそのあと、自分の手をどこへ置けばいいかわからないように膝の上で握りしめる。
「名前は?」
「妹がリナで、俺はトーマスです」
「今日は、何が一番心配で来たの?」
少年はすぐには答えなかった。
だが目はまっすぐだった。
「返事が、遅いんです」
その一言に、レティシアは小さく頷いた。
ちゃんと見ている。
そして、それを言葉にできている。
「熱もあります。でも、それより……呼んだ時に、いつもならすぐ“なに”って言うのに、今日はちょっと遅くて」
トーマスは妹の顔を見ながら続けた。
「それで、前にここで“返事があるかを見るといい”って聞いたの思い出して」
レティシアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
門前や西棟で交わされた言葉が、ちゃんと持ち帰られている。
持ち帰られ、夜や朝の家の中で使われて、今日ここへ人を連れてきている。
マティアスが帳面に書く。
来訪時の困りごと:返事の遅さ。
「今も呼んだら返ってくる?」
レティシアが聞くと、トーマスは妹の肩へ手を置いた。
「リナ」
少女のまぶたが少し揺れた。
「……おにい」
かすれた返事が返る。
トーマスの肩が目に見えて落ちた。
「よかった……」
「返事はありますね」
レティシアは言う。
「遅さは見ておきたいですけど、今こうして返るなら、そこも含めて家で見るポイントになります」
少年は何度も頷いた。
その顔には、まだ不安が残っている。
でも、“怖い”だけだった時の顔ではない。
見るべきものをひとつ持っている顔だ。
二人目は、以前も来たことのある母親だった。
抱いている男の子は前よりずっと元気そうで、母親の方も疲れてはいるが、目の奥に少し余裕がある。
「今日はどうしましたか」
レティシアが尋ねると、母親は苦笑した。
「悪くなったんじゃないんです」
「はい」
「むしろ良くなってきた気がするんですけど……今度は“返事が戻ってきた”って、こういう言い方でいいのか確かめたくて」
レティシアは少し目を瞬いたあと、やわらかく笑った。
「いい言い方だと思います」
母親はほっとしたように息をつく。
「前は、熱があるとか、食べないとか、そういうことばかり見てたんです。でもこの数日、名前を呼んだ時の顔つきとか、返し方とか、そこを見るようになって」
彼女は男の子の髪を撫でた。
「昨日はぼんやり目を向けるだけだったのに、今朝は“いや”って怒ったんです」
その言葉に、セラが思わず笑う。
「それ、元気が戻ってるやつですね」
「ですよね?」
母親が泣き笑いのような顔で言う。
「怒られて嬉しいなんて、おかしいけど」
でも、その気持ちはよくわかる。
返事が返る。
しかもいつもの調子に近い形で返る。
それは、家族にとって何より安心の材料になる。
レティシアは帳面の余白へ、小さく書き足した。
改善指標としての返事の質。
無愛想でも、怒っても、いつもの調子へ近づくこと自体が回復の手がかりになる。
昼前、裏門の列を見ていたエルザが、少し面白そうな顔で戻ってきた。
「門前で、こんな会話をしていました」
「何て?」
「“熱だけじゃなくて、返事が返ってくるか見た?”と」
レティシアは思わず笑ってしまう。
もうそこまで広がっているのか。
水の飲ませ方だけではない。
返事の見方まで。
「以前は“どれくらい熱いか”だけで話していた人たちが、今は“呼んだ時どう返ったか”を言い合っています」
エルザは続ける。
「言葉が増えると、見えるものも増えるのでしょうね」
その通りだった。
名前のない不安は、大きくて曖昧だ。
でも“返事が遅い”“返事が返る”“目だけは向く”と分かれていくと、不安も少し扱えるようになる。
午後、レティシアは久しぶりにユリウスの部屋へ呼ばれた。
西棟から侯爵家の奥へ向かう廊下は、相変わらず静かで広い。だが以前のような張りつめた重さは薄れていた。侍女たちの顔にも、わずかだが余裕が見える。
ユリウスは寝台の上で上体を少し起こしていた。
顔色はまだ完全ではないが、目にはもうはっきりした光がある。
「レティシア」
名前を呼ばれて、レティシアは足を止めた。
マリアがほっとしたように笑う。
「さっきから、あなたが来たらちゃんと返事をすると言っていたのよ」
「そんなことを?」
レティシアが近づくと、ユリウスは少し拗ねたような顔をした。
「僕、そんなに小さくない」
その言い方に、思わずレティシアは笑ってしまった。
「ええ、そうですね」
「前は、母上が何度呼んでも、返すのがひどくしんどかったんだ」
ユリウスは細い声ながらも、ちゃんと自分の言葉で言う。
「今は、まだ疲れるけど、返せる」
それを聞いていたマリアが、目元を押さえた。
返事が返せる。
それがどれほど嬉しいことか、この部屋にいた者は皆知っている。
「今日は何か食べられましたか」
レティシアが尋ねると、ユリウスは少し得意げに言う。
「粥を半分」
「すごいですね」
「……母上は大げさです」
そう言いながらも、彼の口元は少し嬉しそうだった。
この子にも返事が戻ってきたのだ。
ただ生きているというだけではなく、“その子らしい返し方”が。
西棟へ戻る途中、レティシアは胸の奥に静かなあたたかさを感じていた。
返事。
それは本当に小さなことだ。
でも、小さいからこそ見落とされやすく、小さいからこそ戻った時の喜びが大きい。
夕方、またひとりの父親が来た。
本人ではなく、家で寝ている妻の相談だという。
「今日は昨日より飲めたんです」
「はい」
「それで、呼んだら“うるさい”って言われました」
父親は困ったような、でもどこか嬉しそうな顔だった。
「それ、たぶんいいんですよね」
レティシアは笑った。
「ええ。かなり」
父親は深く息を吐いた。
「よかった……」
帳面に向かうマティアスが、少し笑いを堪えながら書く。
返事あり。内容に不機嫌さあり。家族安心。
それを見て、レティシアも少し笑った。
病気の記録なのに、こんなふうに書く日が来るとは思わなかった。
けれど、きっとこれは大事なことだ。
返事の有無だけではなく、返事の“らしさ”まで見えるようになること。
それは、病人がただの症状ではなく、その人自身に戻りつつあることを示す。
夜、帳面を閉じる前に、レティシアは今日のまとめを書く。
本日、“返事の有無”“返事の遅さ”“返事の質”を観察点として挙げる来訪者、複数あり。
改善の手がかりとして、“呼びかけに応じる”“いつもの口調に近い返答をする”ことへの言及が増加。
門前においても、“返事が返るか見たか”との会話あり。
最後に、少しだけ迷ってから一行を足した。
返事は、家族が回復を実感する最も身近な合図の一つとなりつつある。
書き終えて、レティシアは筆を置く。




