68 百人一首をアレンジ55 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
この滝の音は、もう長い間流れが絶えてしまったので聞こえないが、素晴らしい滝だというその名声は、時が流れた今なお、この耳に届いているよ。
なこその滝は、京都大覚寺の大沢池に注いでいた、わずかな段差の流れですね。早くに枯れてしまった滝ですが、それだけに和歌として詠まれているようです。
今回は短めです。よろしくお願いいたします。
「時の人」がその勢いのまま、老齢まで「時の人」であり続けることはない。新作を出せば両手で数えることのできるくらいにまで人気は復活するが、新人や新しい作風に埋もれている時間だって当然のことながらある。
アルバンは、かつてはコンサートを開けばチケットは即完売し、どこのホールでも満席にさせたピアニストであった。
だが、結婚した頃から少しずつ一時期のようなもてはやされ方をされなくなり、齢50を過ぎると「円熟味の増した演奏家」と言われながらも、なかなかホールを満席にすることは難しくなってきていた。
リストの演奏のように、アルバンは豪快で華やかな楽曲が得意だった。そういう曲は、大ホールでこそ輝く。だから、アルバンは大ホールでの演奏にこだわった。チケットが売れないと言われても、音を追及すれば、それは仕方のないことでもあった。
落ち目とまでは言われないが、アルバンのコンサートに顔を出す面子は、かつての若い娘たちから、アルバンと共に年を重ねたマダムたちへと変わり、コンサート自体も落ち着きのあるものへと変化している。
そんなアルバンが最近気になって仕方のないピアニストがいる。今年、演奏家としてデビューしたカールハインツだ。大柄で指も長く、豪快な演奏をするアルバンとは対照的で、背は普通だが細身の中性的なその容姿と細い指から生まれる音は極めて繊細であり、大ホールで大きな音を響かせるような演奏よりは、サロンでゆったりとした曲や、小さな音を楽しむような曲を得意としている。
なにより、顔が今の若い娘たちに好まれる。どちらかというときりっとしたアルバンに対して、優美な表情と物腰のカールハインツは、「やさしさ=自分をただひたすら甘やかしてくれること」という認識の若い娘たちにとって、「優しい男」の代表のような存在だった。
アルバンには、カールハインツの指が紡ぎだす、あの繊細で、星の瞬きをも表現できそうな音を出すことはできない。出せる光の音があるとすれば、それは真夏に燦燦と降り注ぐ太陽であろう。
「優しい男=優しい息子」という連想からか、息子から冷たくあしらわれているアルバンファンのマダムたちは、息子の身代わりのようにカールハインツを追いかけるようになった。
アルバンにとっては、お得意様を奪われたような形だが、好みというものは年齢によっても変わるもの。勇気が欲しい時に背中を押してくれる曲を求めていた時期があったように、涙を流す間そっと寄り添ってくれるような曲を求める時期もある。今の時代が、そんな「寄り添うような音楽」を求めているのだから、アルバンのような演奏は一昔前の古臭い演奏だと感じる人も多いようなのだ。
ニーズがなければ、商売として成立しない。芸術は芸術としてただそこにあるだけで意味を持つものではあるが、生きるためにはそれを商売にしなければならない。それがどれほど良い商品であったとしても、人が振り向かなければ売れず、売れなければ次にまた商品になることはない。いずれは在庫セールに回されて、それでも売れなければ返品か、処分されるか。それはまた、芸術も同じ。演奏家というものは、客が望む音楽を演奏することで対価を得る。だから、自分の強みと顧客のニーズを組み合わせた上でプログラムを組み、演奏に使うホールを選ぶ。同じ曲を弾き続けた時、「定番」と呼ばれるか「聞き飽きた」と言われるか、そこは演奏家と観客のニーズバランスにもよるところだ。
そう考えると、自分のプログラムは飽きられているのだろうか。
アルバンの心の中は、寂しさが吹き荒れる。若くて絶大な人気があった頃に比べれば、コンサート収入は半分以下に減った。その代わり、レッスンを希望する人はそれなりにいる。アルバンのような演奏スタイルや音を好む者だからこそアルバンの元に弟子入りを希望することもあり、アルバンとしても似たような音に囲まれてばかりで、刺激を必要としているのかもしれない。
とはいえ、アルバンは自分から外に出ていくタイプの人間ではなかった。おひとり様で行動するのは全く苦にならないが、他のピアニストの演奏会に行けば当然他の演奏家と顔を合わせることになる。そこでああでもないこうでもないと批評めいたことを語りだす者もいて、そういう談議に強制的に参加させられることが苦手だったのだ。
「最近、新しい生徒さんが入らなくなりましたねえ」
妻に言われて、弟子たちの顔も固定化していたことに気付く。稀に「先生に師事したという箔をつけさせたい」という弟子の願いで孫弟子にレッスンをすることもあるが、それは単発のレッスンだ。
「あまり若い演奏家ですと、お弟子さんもそんなに取らないのでしょうけれど」
おそらく妻が思い浮かべているのは、カールハインツだろう。
「私もそうだった」
「ええ、私と結婚してすぐはコンサートで各地を飛び回っていましたねぇ。でも、子どもが生まれたら、あなたはコンサートを半分に減らして、一緒に子育てしてくれました」
妻は穏やかに、カップの紅茶を一口飲んでからそう言った。
「あの時代に、一緒に子育てしてくれる男性の音楽家なんて、なかなかいませんでしたからねえ、あなたが仕事をセーブした原因だと私を悪く言う人もいましたけれど、私は子どもも私も大切にしてくれるあなたのことが自慢だとはっきり言ってやったことが何度もあったんですよ」
「それは、初耳だな」
「ええ。言う必要がありませんでしたから」
「そうだな。あれが、私たちのやり方だった」
「私、感謝しているんですよ。衣食住に困ることなく、あなたの弾くピアノの音を日常生活の中で聞くことができる。贅沢ここに極まれり」
「大げさだな」
「ふふ」
アルバンの妻は、友だちでもファンでも生徒でもなかった。調律師だった。自宅のピアノを調律していた調律師が老齢で引退する時、自信を持って推薦してきたのが、今の妻だった。
最初に調律してもらった時、アルバンは音が大きく変わったことに気付いた。驚くアルバンに、彼女は言ったのだ。
「あなたの音は、聞く人の背をどんどん押してくれるような力強さに特徴があるでしょう? だったら、タッチも重すぎない方がいいだろうし、音も堅めにした方がいいかなって。ガーゼタオルで巻いたような音より、パキッとした音が好みかと思ったのだけれど、違ったらやり直すわ」
自分の理想とする音、目指すものを共有してくれる調律師だ。そう思った時、初対面のその日にアルバンは求婚した。
「私が演奏するピアノの調律は、全てあなたに任せたい。どこへ行くにも、一緒に行ってほしい。この世でこんなに信頼できる女性は二度と現れないだろうから、一生傍にいてほしい」
「え?」
「結婚してくれ!」
「いきなり?」
「あなたの技量と心遣いに感動したんだ!」
当然、その日にOKの返事などもらえなかった。その代わり、国内のコンサートの調律は全て引き受けてもらった。もちろん、半年に一度の自宅ピアノの調律も任せた。
コンサートには一緒に行くわけではなかったが、共に過ごす時間が増える中で、お互いのことを知り、お互いを取りまく人々のことを知り、二人はお互いに世界で一番信頼できる人だと思えるようになった。
専属調律師として、そして人生の伴侶として、アルバンたちはいつも一緒に行動した。だから、アルバンにとって、妻と一緒にいることが当然で、つわりで動けない妻の代わりの調律師が調律したピアノを弾かねばならなかった時、思った通りの音が出ずに不安になった。
そんなことがあったからこそ、妻の調律でなければだめなのだと再認識した。妻が動けないなら、自分も動かない。それに、子どもを育てる時間を捨てるなんて、人生の損だと思えた。
いつも、家族は一緒だった。おひとり様が苦にならないのは事実だが、娘がいた時は娘も含め、嫁いだ後は妻と二人で過ごすのが当然であった。もしかすると、家族がいると他の演奏家たちが遠慮してくれるから、余計に妻たちに依存していたのかもしれないが。
「ねえ、久しぶりにタイプが違う人の演奏を聞きたいわ。ピアノじゃなくてもいいの」
「そうだな」
アルバンは朝一度片づけた新聞を取り出した。新聞の文化欄の隅に、演奏会情報が掲載されている。一か月以内に近くのホールやサロンで開かれるコンサートの情報を見ていると、とある小さなサロンのカールハインツの名が飛び込んできた。
「カールハインツ」
「あら、この町に来るの?」
「そうらしい。だが、チケットは残っているだろうか?」
「とりあえず聞いてみましょうよ」
問い合わせたところ、チケットは既に完売していた。他の演奏家のコンサートのチケットを取ろうとしたアルバンに、チケット売り場にいた馴染みの店員が「アルバン先生」と声をかけた。
「実は、カールハインツさんから、もし可能であればアルバン先生に渡してほしいとお預かりしているものがあるんです」
手渡されたそれは、リハーサルの日時と「ぜひ一度ご教示願いたいので、リハーサルの時間に来ていただけないか」という内容が書かれた手紙だった。
「アルバン先生がチケットを買いに来られたならば渡してほしいということだったんです」
「うちに直接手紙でも送ってくれればよかったのに」
「自分に興味がおありでないならば無理強いできないから、とおっしゃっていましたよ」
「そうだったのか。ありがとう、都合をつけるよ」
妻と二人で、指定された日時に小さなサロンに出向いた。床と壁が石造りで、天井は高い。小さな咳払いでも音は反響する。小さな音は間違いなく響くが、ミスタッチもまた目立つ、そんなサロンだ。ピアノはサロン用のもので、コンパクトながらいい音が鳴ると評判の職人の手によるものだ。サロンの経営者がどんな演奏を望んでいるのか、コンセプトがはっきりしたサロンだ。
サロンの奥から、若い男性が出て来た。カールハインツだ。
「初めまして、ではないんですが、アルバン先生は覚えていらっしゃらないでしょうね」
「以前どこかでお会いしたことがあっただろうか?」
「僕がまだ10歳の頃に二度、レッスンをしていただきました。演奏会前のイベントで一回、そこで先生から『一度自宅に来なさい』と言っていただいて、先生のご自宅で一回」
そう言えば、演奏会の時にスケジュールに余裕があれば、地元にいる、才能ある将来のピアニスト候補たちのレッスンをイベントとして行っていた。4人ほどを公開レッスンするのだ。そこで「これは」と思った子どもに声をかけたことは何度かあった。遠方からは来ることが難しいとほとんどの子どもは姿を見せなかったが、3人ほどは自宅を訪ねて来た。二人はそのまま弟子となり、一人は遠方だったので「思い出にします」と言って一度だけレッスンをしていったのだが、それがカールハインツだったのだ。
「あの時、僕はポロネーズを弾きました。でも先生は僕の演奏を聞いて、ノクターンを弾けとおっしゃいました。その時知っているノクターンは一曲で、それも練習中の曲だったので、すごく緊張しながら弾きました。僕は緊張のあまり、フォルテがフォルテになり切らなかったことで、先生に叱られるんじゃないかってびくびくしました。
でも、先生は叱らなかった。むしろ、小さな音が弱い音ではなく、芯のある小さな音がこの年齢で出せるのは素晴らしい、才能だと言ってくださった。最初僕は弱い音と小さい音の違いが分かりませんでした。僕の質問に先生は、小さい音はしっかりした音で弾くべき時と、力の感じられない弱い音で弾くべき時がある、どちらを選ぶかは曲想から判断しなければならないと教えてくださいました。
僕はそれ以来、小さな音をいかに弾きわけるか、そこに力を入れて演奏するようになりました。今の僕のスタイルがあるのは、先生のおかげなんです」
「そんないいこと言ったかな?」
アルバンはそこまで覚えていない。ピアニッシモを、かすれるような音で弾く人間が多い中、この子はちゃんと「小さいだけでしっかりした音が出せる」と思ったことだけは覚えているが。
「はい。ですから、先生にはいつか、僕の『小さな音』がちゃんと成熟したものになったか、ご教示いただきたかったんです」
「そうか。では聞かせてもらえるか?」
アルバンは妻と二人、ピアノの前に置かれた椅子に座った。カールハインツは、静かにノクターンを弾き始めた。途端に、子どもの時のカールハインツの姿が脳裏に浮かび上がった。
ああ、あの子だったのか。
自分とは違うタイプだが、この子は違うとアルバンが全身を震わせた、あの演奏。甘やかで繊細な音が、小さなサロンに心地よく響く。
演奏を終えたカールハインツは、緊張した面持ちで「講評をお願いします」と言った。
「言葉などいらんよ」
アルバンは頷きながら言った。隣では妻が涙を流している。
「素敵な演奏だったわ。そうね、まるで男女が月の光に照らされて、バルコニーで幸せ用に微笑みながら抱き合っている、そんな光景が浮かんだわ」
「ええ、それが僕の、このノクターンに対するイメージなんです」
「素敵だった。本当に。調律もあなたの演奏にあっていたわ」
「ありがとうございます」
調律師が照れたように頭を掻いた。
「アルバン夫人に調律をほめられたなんて、自慢できちゃいます」
アルバンはそれ以来、コンサートを開かなくなった。自分の体力では、もうコンサートに耐えられないということにしてある。
その代わり、子どものレッスンを増やした。良さを見極め、引き出すことに専心した。カールハインツとも、しばしば手紙のやり取りをした。音楽のこと、曲の理解、そのホールの音響の特徴は……話は尽きなかった。
穏やかな日々の後、アルバンは病に倒れ、ほどなくこの世から旅立った。葬儀に駆け付けたカールハインツは、号泣した。
「アルバン先生。先生は演奏家としては、既に現役を引退して、過去の演奏家と思われているかもしれません。ですが、先生の教えを受けて音楽を楽しみ、演奏できるピアニストはどんどん増えています。先生の名前は、優れた演奏家として、また指導者として、今も、そしてこれからも、きっと伝えられていくことでしょう」
滝(名詞)の(格助詞)音(名詞)は(係助詞)
絶え(動詞・ヤ下二・連用)て(接続助詞)久しく(形容詞・ク・連用)
なり(動詞・ラ四・連用)ぬれ(助動詞・完了・已然)ど(接続助詞)
名(名詞)こそ(係助詞)流れ(動詞・ラ下二・連用)て(接続助詞)
なほ(副詞)聞こえ(動詞・ヤ下二・連用)けれ(助動詞・詠嘆・已然)
音・絶え・流れ→「滝」の縁語
なり(鳴り)・聞こえ→「音」の縁語
なり→「(久しく)なり」と「鳴り」の掛詞
こそ+けれ→係り結びの法則




