66 百人一首をアレンジ35 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
読みに来てくださってありがとうございます。
紀貫之の有名な一首ですね。
男女の間の歌と解釈する説もあるので、今回はそちらよりで。
よろしくお願いいたします。
人の心は移ろうもの。
物理的距離が心理的距離と連動するのもまた、必定。だから、どれほど熱烈に愛し合っていたとしても、なんらかの事情で会えない日が続くと、遠くにいる本命よりも傍に居る少し劣った異性でも魅力的に感じるようになる。
それはきっと、子孫を残すための本能的な防衛策なのだろう、とアルバンは思う。
「それにしても、本当に君はつれないな、マーヤ」
一人静かに酒をあおりながら月を見たアルバンは、かつては「僕の月」と呼んだ元恋人を思い、静かに嘆息した。
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アルバンはある小国の第三王子として生まれた。第三王子という立場も、生母が本来ならば愛妾にもなれぬほどの身分であったということも影響したのか、王妃腹の兄王子二人とは違って自由に育てられた。
自由に育てられたのには、もう一つ理由がある。それは、アルバンは王城内で育てられなかったということだ。
母は、国王が地方巡視の際に一夜限りの相手として召し出された女性だった。男爵家と言えば聞こえはいいが、男爵というのは元々領主代官であり、代官になれたのはその村のことをよく知る豪農であったり村長であったりした。いくつかの村をまとめて代表するもの、それが男爵である。生まれながらに青い血が流れると言われるようなお貴族様とは全く違う。平民の方がはるかに近い存在だし、豪商と呼ばれるような家の方がよほど優雅な生活をしているのではないだろうか。
アルバンの母は、国王のお手付きとなり、当然のごとく放置された。
つわりが来て初めて娘が妊娠したことを知った父男爵は、念のために王宮に知らせた。月満ちて生まれた子が王と同じ紫の瞳だったことで、この子が王の子であると証明された。
王妃は怒らなかった。ただ、夜伽用にと差し出される娘たちの多くがその後、「王のお手付き」として扱われるか、「傷もの」として扱われるかで人生が大きく変わることを知り、傷ものとして売られたり望まぬ結婚を強いられたりした女性たちを保護するようにと進言した。
王も慣例だと言われて受け入れていたが、自分が手を付けたことで悲惨な目にあった女性たちが数多くいると知って反省し、その後の視察では夜伽用の女性を用意しないようにと厳しく通達するようになった。
とにかく、ド田舎に王家の血を持つ、それも男子が生まれてしまったのだ。
王家から王の子としてふさわしい身の回りの品が贈られ、王が「アルバン」と命名した。1歳になったところで、王都への旅にも耐えられるだろうということで、王宮に顔を出すようにと命じられた。もちろん、お目見えだけである。
付け焼刃のマナーでガタガタ震えるアルバンの母を、王妃はたいそう気の毒がった。
「結婚したければ王家が縁を結ぶが、そなたの望みは?」
王妃の言葉に、アルバンの母は、「自分の結婚は望まない」と言った。
「もし、他の男性との子が生まれれば、たとえ王家の血を持つ子であったとしても、夫となる人がわが子と全く同じように接してくれるとは限りません。でしたら、母と子二人で生きていこうと思います」
「アルバンをここに連れて来たわけではないの?」
「お許しいただけるならば、この子は男爵家の子として育てます。庶子には継承権もございませんし、なによりもわが家では王子として立つだけのものを用意できません。わたくしも、王子の母として立つことは叶いません。不足だらけの王子など、王家の顔に泥を塗るだけとなりましょう。一度だけ、陛下にこの子の顔を見ていただき、せっかくいただいた王子という身分ではありますが、返上するために参りました」
王妃は考えた。ド田舎の男爵家の娘にしてはしっかりしているし、顔つきもかわいらしい。王太子は既に成人しているし、第二王子も16歳。1歳のアルバンは将来生まれる孫に近い年齢となるし、アルバンの母も王太子よりわずかに2歳年上なだけだ。
王妃にとって、アルバンは孫、アルバンの母は嫁のように思えた。
「そなたが望むようにしよう。だが、アルバンは第三王子のままじゃ。田舎ゆえに他国や敵対勢力の者たちがアルバンを誘拐して旗頭にする可能性もあるし、脅しの材料とすることも考えられる。王子の身分があれば、王子を守るという名目でそなたたちの元に護衛をつけることもできるし、王子と同レベルまでは難しいがそれなりの教育を受けさせることもできる。どうじゃ?」
王都の学院に入学させるのは貴族の義務だが、男爵家の経済状況から考えれば、跡継ぎである兄の子一人が精一杯だろうとアルバンの母は思っていた。学院を卒業できなければ、貴族として最低限の知識教養技術が身に付けられない。そうなると、我が子は貴族として扱われないことになる。「血だけの王子」として蔑まれることだけは避けたいと考えていたがどうしようもないと思っていたアルバンの母にとって、王妃の提案は渡りに船である。
「教育だけは受けさせて差し上げたいと思っていたのです。母が私であるというだけで、この子の将来は決して明るいものにはなりませんから」
「あいわかった。そなたの望みは、国王、王妃両名がかなえよう」
しかるべき年齢になったら家庭教師も王都から派遣されると聞き、アルバンの母は平身低頭して感謝して、護衛たちと一緒に故郷へと帰っていった。
「陛下、本当はあの者たちを傍にお置きになりたかったのではありませんか?」
王妃に小声で言われた王は、首を横に振った。
「あれらは野の花だ。金の大きな花入れに活けたとたん、花入れの底に落ちて日の目を見ることはなくなるだろう」
「あら、わたくしは?」
「そなたは金の花入れの中で燦然と輝く大輪の百合だ。同等に扱うことなどできようはずもない。百合には百合の、野の花には野の花の、それぞれが一番輝く場所にあることが望ましい。それに、あれは己が野の花であることを深く自覚している。百合の傍では己などただかすむだけだとわきまえているのだ。それにしても、そなたが王子の地位を保証するとは思わなかったぞ」
「わたくし、決してよい意味で王子の地位を保証しようと考えたわけではございませんわ」
「ん?」
「わたくしたちには娘がおりません。諸国とのつながりの中で、王女が他国の王族に嫁いだり、王子が婿入りしたりすることがございましょう? 第一王子は王太子として将来の王に、第二王子はそのスペアとして必要です。もし、王族の誰かを差し出さねばならなくなった時、あの子がいれば安泰です。もちろん、不幸な目に遭わせることが分かっているような婚姻でしたら、お断りしますが」
「そなたは全く知恵が回る」
「必要な知恵でございます」
政治的な利用目的により、第三王子でありながら田舎で成長することになったアルバンは、それは元気な男の子に成長した。護衛のために派遣された10人の騎士たちは、最初こそ戸惑っていたようだ。だが、3か月で交代の確認が来た時、王都に戻ることを希望したのは二人だけだった。二人とも、王都に家族を残して赴任していた男だった。
もう一人、家族を王都で待たせていた者もいたが、彼は家族をこの男爵領に呼び寄せた。
「うちにも小さな子どもがいるので、馬車がひっきりなしに通る王都よりも、こちらで過ごした方がのびのびと育児ができると思いまして」
呼び寄せられた家族の子どもは、アルバンの遊び相手として父騎士と一緒に男爵家に毎日来るようになった。ヨハンとマーヤだ。
ヨハンはアルバンの3歳年上、マーヤはアルバンと同じ年だ。ヨハンとマーヤの母はもまた、アルバンの母の話し相手として仕えることになった。ちなみに、ヨハンとマーヤの母は子爵家の令嬢だったが、持参金をつけてもらえないと分かっていたので王城のメイドとして出仕し、近衛騎士だった夫と出会い、結婚したといういきさつがある王城のこと、王城でのマナー、家庭教師たちとの折衝などをこなしてくれる彼女のおかげで、アルバンの母は精神的に随分楽になった。
ヨハンは、将来父同様に騎士になると決めていた。だから、父たちが鍛錬する時間になると、ヨハンも小さい体を必死に動かしていた。それに影響され、アルバンとマーヤも一緒になって棒を振ったり走ったりするようになった。
家庭教師は、アルバンが体を鍛えることに大賛成した。
「殿下は、御身をご自分で守らねばならないことが、兄上方に比べて多くなるでしょう。逃げることさえできればよいのです。適した年齢になったら、乗馬も始めましょう」
「馬、ですか……」
アルバンの母は困惑した。馬は買うのも飼うのもお金がかかる。男爵家で馬車に乗る時は、
普段は荷馬車を引いている馬か、農耕馬を転用している。王都に行った時は王家が迎えをだしてくれたから問題なかったが、馬車馬なり騎馬なりを用意するとなれば、男爵家の財政に負担がかかる。将来の男爵となる兄の子でさえ、馬はない。たとえ王子であろうとも、兄の子を差し置いて何かするのは、アルバンの母には難しかった。
「大丈夫ですよ。騎士たちが連れて来ている騎馬から子馬も生まれますし、その経費は王城負担と決まっておりますので……」
「ええ……」
「つまりですね、殿下は騎士たちの馬に乗るだけなので、所有していないということです」
「もし、甥も乗りたいと願えば、乗せていただけるのでしょうか?」
「男爵となる方が馬に乗れなければ、領地の見回りにも行けないのではありませんか?」
「小さな荷馬車で見回りに出ておりますので、騎馬は……」
家庭教師は、地方代官である男爵の生活がどれほどのものかを、この地に来て初めて知った。もちろん、王城にも様々な報告を上げているが、身分の低い貴族が王族や高位貴族と血のつながりを持つべきではない理由が、こういった生活レベルの大きな差と、そこから生まれる価値観の違いに起因するのだろうということも報告している。
「そのあたりは、きちんと分けてお考えください。あなた様は確かに男爵令嬢に過ぎない。ですが、殿下は第三王子という身分をお持ちです。あなたは乳母を持たずにお育てになったので母であるという感覚が強いでしょうが、本来はお目見え以下の身分です。そして、甥殿も男爵になるのが定め。ならば、王族と同じものを求めてはならないと教えるのも、大人の役目ではありませんか? 従兄弟であるという認識は、捨てておしまいなさい」
上位貴族は、家族という概念が弱いと聞く。だからこそ、兄弟間で血を流すような継承争いも起きる。
「理解しようと思わなくていいのです。ただ、そういうものなのだと思いなさい」
「わかりました」
母の大きな葛藤を知らず、アルバンはすくすくと育った。隣にはいつも、ヨハンとマーヤがいた。いたずらするのも、森に入るのも、畑仕事を手伝うのも、いつだって一緒だった。夜、彼らが家族で帰っていくのを、アルバンはじっと見送った。
「僕にはパパがいないんだね」
「ええ。あなたのパパは国王陛下だから、そんなに簡単に会えないわ」
「どうして、僕は王城にいないの?」
「それはね、ママがお妃さまではないからよ」
「僕は、生まれてはいけない子だったの?」
幼いアルバンの口から出た言葉に、マーヤはアルバンをぎゅっと抱きしめた。
「いいえ、あなたはママの天使よ。生まれてきてくれてありがとうって、いつも言っているでしょう? それに、あなたのパパが、ヨハン君とマーヤちゃんのお父さんはじめ騎士のみなさんや家庭教師の先生をつけてくださっているの。パパは遠くから、アルバンのことを見守ってくれているのよ」
「本当に?」
「ええ、本当よ。それにね、あなたには13歳になったら、王都の学院に行かせてもらえることになっているわ。それも、あなたのパパが学費を出してくださるから行けるのよ」
「じゃあ、会わないだけで、邪魔ものじゃないんだね?」
「だぁれ、アルバンのことを邪魔者なんて言ったの?」
「誰も言わないよ。僕がそう思っただけ」
まだ5歳の子どもがそう思いこむなんて、とアルバンの母は気落ちしたが、笑顔を作っていった。
「アルバンは、この国の第三王子殿下なのよ。それは国王陛下も王妃陛下もお認めになっていること。だから、自信を持ちなさい」
「うん、わかった」
「うん、じゃなくて、はい」
「はい!」
だが、平和な日々は続かなかった。遠くの帝国が次々と周辺各国を飲み込み始めたのだ。この国も周辺国と合同で帝国と戦争をすることになった。暗い雰囲気の中、13歳になったアルバンは王都に行く日を迎えた。
「マーヤも一緒に学院に通えるなんて、僕はうれしい」
「わたしもよ。騎士コースなら将来の護衛として役に立つから入学を認めるって連絡が来た時は、本当に天にも昇る心地ってこういうことかと思ったもの」
王家側にしてみれば、マーヤが女性騎士となることは、アルバンの将来の妻の護衛騎士養成という目的があったわけだが、そんなことはつゆ知らず、二人は手を取り合って喜んだ。
お互いが初恋の相手で、なんとなくいつも一緒にいる。
そんな何とも言えない関係の二人だが、それを周囲は温かく見守っていた。だからこそ、王家の目論見に気付いた騎士たちや家庭教師は、二人に王家の考えを話すべきかどうか、話し合った。
結果的に、学院卒業時になっても今のままの関係であるならば、きちんと話そう。それまでは幼馴染として一緒にいればいい、ヨハンと従兄も先に入学しており、見張り役はいるのだから、というあいまいな案で話はまとまった。
学院でも、アルバンとマーヤはいつも一緒だった。アルバンは領地を治めるわけでもないからと騎士コースに入学していたのだ。
第三王子ということで、他のコースの女子生徒たちが黄色い声をあげることもあったが、二人には関係ないことだった。
15歳にもなると、二人はお互いを完全に異性として意識するようになった。誰も見ていない所では手をつないだこともある。いや、キスまではした。マーヤはいつも顔を真っ赤にして恥ずかしがっていたが、それさえ、アルバンにとっては御褒美のように思えた。
3年が終わった翌日、アルバンはマーヤと郊外に出かけた。ヘリオトロープの花が見頃の場所があると聞いたのだ。甘い香りが漂う中、マーヤと手をつないで歩いた。
「本当にいい香りね」
「うん、何だか幸せな気持ちになれるね」
「あ、アルバンはヘリオトロープの花言葉を知っているかしら?」
「いや、花言葉は覚え始めたばかりで、ヘリオトロープのものは知らないな」
「教えてあげるわ。『献身的な愛』よ」
「いい言葉だね」
「うん」
それ以上は口にできなかった。ただ、ヘリオトロープの花を少しだけ摘んで、押し花にした。
「二人でお揃いの栞になったね」
「香りが飛びやすいけれど、今日の記念になるわね」
そう笑っていたのに。
4年に進級する日を翌日に控えたその日、王城から突然、アルバンの元に使者がやって来た。
「陛下のお召し?」
「はい。第三王子殿下を至急お連れするようにとの命でございます」
召喚状には、確かに王家の印章が押されている。アルバンは使者に連れられて、王城に入った。
1歳の時にお目見えしたと母から聞いていたが、自我がある状態で王城に上がるのはこれが初めてのことになる。ここまで、王城に上がる必要はないと言われていたのに、一体何が起きたのだろう。
王族の私的な応接室に通されたアルバンは、そこで初めて、父である国王に会った。
「学院での成績もよいと聞いている。よく励んでいるようだな」
「お褒めに預かり恐縮でございます」
「ん。実は、今日呼び出したのは、重要な任務を与えるためだ」
「任務ですか?」
アルバンは首を傾げたかったが、やめた。そういうのは無礼なのだと学んだことを思い出したからだ。
「お前には、人質になってもらう」
「人、質……ですか」
「帝国との戦争に、負けた」
アルバンははっとして顔を上げた。国王の顔には深いしわが刻まれている。疲労もあるのだろう、顔色はかなり悪い。
「余は敗戦の責任を取って退位。この国は帝国に吸収され、自治州となる。王太子が大公として自治州を治めることになったが、我らを抑えるために、二十歳未満の王族から一人、人質を出すようにと命じられたのだ」
「それで、僕ですか」
「王子としての最初の任務が人質ということがどれほど酷なことか、よくわかっている。だが、そなた以外に人質を務められる王族がいないのだ」
王太子の所に生まれたばかりの男子を人質に出すようなことはできない。第二王子は王太子に何かあった時のスペアだということは理解している。
「そうですね、僕しかいないのですね」
「すまぬ。そなたはこのまま王城に残り、王子としての教育を短期の間に詰め込む。まずは自分自身を僕と呼ぶのは止めなさい」
「かしこまりました」
どうして自分なんだ、と思う気持ちがないとは言えない。だが、己の産んだ子ではない第三王子を人質に出すならば、王妃の胸はそれほど痛まないだろう。王だって、接点のなかった息子なら、それほどの抵抗なく送り出せるはず。
(母さんが聞いたら、泣くだろうな)
だが、母と連絡を取る暇さえなさそうだ。
マーヤにだけは、王城に入ることになったと手紙を運んでもらった。国王も、それだけはかなえてくれた。
アルバンが帝国に出発する日、多くの民が人質となった王子をあわれがって見送ってくれた。その中に、マーヤの顔があった。
「行ってくる」
口だけでそう伝えたが、マーヤの返事はなかった。ただ、マーヤは呆然とアルバンを見つめ続けるだけだった。
帝国に渡ったアルバンは、決して粗略な扱いを受けることはなかったが、故国との手紙のやり取りは全面的に禁止された。学びたいと言えば家庭教師が手配され、同じように人質として連れてこられた各国の王子王女たちと交流の場が持たれることもあった。
帝国側としては、帝国のしきたりや考え方を各国に伝える「大使」のような存在を作りたかったようだ。皇子皇女との婚姻によって関係強化を図ろうという意図も透けて見えた。
アルバンは、母の生まれが卑しいという理由でほとんどの人から相手にされなかった。仲間になって何か企んだ者たちがいたようで、彼らからも声を掛けられなかったアルバンは、当然処分を免れた。
3年もいれば、帝国の法律や人脈にも通じるようになった。他の国の誰よりも、帝国側と深い関係を築いてきたという自負もある。
「今のアルバン殿なら、人質ではなく自治州の大使として遇したいのだが、どうだろうか?」
帝国の宰相にそう言われたアルバンは、故国で大公になった兄に確認したいと願った。会ったこともない兄に初めて書く手紙。筆は思うように進まなかったが、何とか要件をまとめ上げた。そして、もし可能であれば、マーヤがどうしているか知りたい、と書き添えた。
アルバンもマーヤも、18歳。もしあのまま学院に通っていたら、卒業することになっていた年だ。手紙のやり取りを禁じられていたためにマーヤのことは思い続ける他なかったが、マーヤだって同じ気持ちだと信じたい。
一か月後、大公から返事が来た。既に検閲されている。ということは、自分が書いた手紙も帝国側に検閲されていたのだと、今頃気づいた。
「帝国との橋渡し役としての大使の役を任ずる」
兄大公は、アルバンが大使となることを認めてくれた。そのことに、まずほっとした。
「それからマーヤという女性だが、調査の結果、既に結婚していることが分かった。相手は学院時代の上級生とのこと。在籍中に妊娠したために退学し、上級生の卒業を待って結婚したそうだ。子どもは既に二歳。幼馴染の慶事だ、そなたからも祝福してやるとよい」
は、とアルバンは息を吐いた。
二歳の子どもがいるということは、妊娠したのは3年より少し前ということになる。アルバンが人質として送られたのは3年前。つまり、アルバンがいなくなってすぐに上級生の誰かの子を妊娠したということになる。
な~んだ、と思いながらアルバンは天井を見上げた。天井がぼやけて見える。泣いてなんかないぞ、と言い聞かせたが、涙が無情にも零れ落ちていった。
「僕じゃなくてもよかったんだな、マーヤ」
唯一無二の存在だと思っていたのに、マーヤにとっては待つべき人、待ちたい人ではなかったということが、せつなく苦しかった。マーヤが子どもを育て、家庭を築いていたこれまでの時間、アルバン一人がマーヤを思い続けていたなんて、馬鹿らしいとさえ思った。
正式な辞令は、一時帰国の許可が出て自治州に戻った時に交付する、許可が下りたらすぐに連絡するようにとも書かれていたが、その手紙を机の上に乱雑に投げると、アルバンはそっと引き出しからヘリオトロープの花の栞を取り出した。ただでさえ香りが飛びやすい花なのだ、今はどれだけ鼻を押し当てても香りはしない。色あせて香らない花と自分たちの思い出が重なって、アルバンはその夜一人で泣いた。
三か月後、アルバンは兄大公に面会するため、一時帰国を許された。初めて会った兄は、思いのほか自分と似た顔をしていた。同じ紫色の瞳を持っていたせいかもしれない。
大使としての辞令を受け取ると、帝国に戻る途中、母の待つ男爵領に立ち寄った。お忍びだったから前触れも出さずに、母と住んでいた小さな家を訪ねた。
母はアルバンを見て驚き、次いで涙を流しながら抱き着いてきた。母はこんなに小さかっただろうかと、アルバンは戸惑った。人質になったと知って、ショックで寝込んでいた時期もあったらしい。
隣の人が男爵となった伯父の所に走ってくれて、伯父も慌てて来てくれた。伯父によると、母は今ころ普通に生活できているが、寝込んだ時にはあのまま死んでしまうのではないかと思ったと教えてくれた。
一晩だけ母の元に泊まることにしたアルバンは、村を歩いた。何もかもが、子どもの頃の思い出のままだったはずだった。
かつてマーヤたち家族が住んでいた家に差し掛かった時、聞き覚えのある声が聞こえた。小さな子どもを、男性が抱いて外に出ていく。
「それじゃ、散歩してくるよ」
「いってらっしゃい!」
男性が出ていった後、家の扉を閉めようとして、女性がアルバンを見た。女性は固まって動けなくなった。わなわなと体を振るわせながら、じっとアルバンを見ている。
「マーヤ、久しぶり」
「……」
「心配するな、すぐに帝国に戻らなければならないんだ」
「……」
「へえ、ヘリオトロープを植えているんだね。いい香りだ」
「……」
マーヤの目から涙があふれ出しているが、アルバンは気にせずに話し続けた。
「心の距離と体の距離は相関関係があるらしいね。遠くに行って会えない人は、死んだ人と同じだとかいう人もいるよ」
マーヤの顔はもう青を通り越して白くなっている。
「ヘリオトロープの香りは昔と変わらずいい香りだよね。人間の心はうつろいやすいものだけれど」
アルバンはそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。
「アルバン!」
背中に声が投げつけられた。
「どうして手紙をくれなかったの?」
「禁止されていたからさ」
「え……」
「やりとりは一切禁止されていた。手紙を出しても届かないように処理されていた。僕も、君が結婚したことを知ったのは、つい3か月くらい前のことさ。それまではこっちの情報も、僕の所には全く届かなかったから」
「嘘……」
「嘘じゃない。それほどまでに、帝国は警戒していたんだ。人質が故国と連絡を取れないなんて、普通に考えたらわかることじゃないか」
「私、手紙を送ったのよ、何度も、何度も!」
「その割には、2~3か月でいい人ができたんだな」
「慰めてくれたのよ」
「その程度だったんだな」
「違う!」
「いや、違わない。今のマーヤは幸せなんだろう? なら、それでいいじゃないか」
マーヤが泣きさけぶ声が聞こえたが、アルバンはもう振り返らなかった。
一泊する予定だったが、そのまま村を出ることにした。母は残念がっていたが、帝国が許せば帝国で一緒に暮らそうと約束した。
風に揺れるヘリオトロープが、あの甘い香りを運んでくる。
もう、子ども時代の思い出からも卒業すべき年になったんだ、とアルバンは思った。
人(名詞)は(係助詞)いさ(感動)
心(名詞)も(係助詞)知ら(動詞ラ四未然)ず(助動詞打消終止)
ふるさと(名詞)は(係助詞)
花(名詞)ぞ(係助詞)昔(名詞)の(格助詞)
香(名詞)に(格助詞)にほひ(動詞ハ四連用)ける(助動詞詠嘆連体)
※ぞ→ける 係り結び
※花→古文で「花」は一般的に「桜」をさすが、時代が古くなるほど「梅」を指すことが多い
※にほふ→現代では香りがあることを指すが、古文では照り映えるような艶々感を表現することが多い。今回は「香」という言葉があるので、香りがするという意味でOK。




