65 百人一首をアレンジ25 名にし負はば逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな
恋しい人に逢えるという意味を持つ「逢」という字を含む「逢坂山」。
共に夜を過ごせるという意味を持つ「寝」という字を含む「小寝葛」。
そのような意味を持つ名前を持っているのなら、逢坂山にあるさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたの元に行く手段があればいいのになぁ。
アルバンにとって、マーヤは生きる希望だ。
家どうしのつながりと政治的な目的で結婚した妻に不満があるわけではない。妻は身分相応に美しく、そして賢く、家のことを安心して任せられる女性だ。
妻と婚約する前に、他の女性たちと恋愛の真似事のような交際をしたことはある。後ろ指を指されるような交際ではなかったし、交際を終わらせる時にはきちんと話し合い、付き合ってくれてありがとう、という気持ちを込めてそれなりの額の金品を渡して来た。
その甲斐あって、「スマートな別れ方ができる」男だと言われ、別れた女性たちとも良好な関係を保ち続けている。
妻との関係はそれまでの女性たちとは比べ物にならないほど濃く深いものであるが、同時に見えない壁のようなものを感じてふと足を止めてしまうこともある。
もっと近づきたいわけではない。
これが、それなりの地位に就いている貴族夫婦というものなのだろう。
自分自身の家庭環境を振り返りながら、アルバンはそんなふうに思っていた。
そう、思っていた。人が恋に落ちるなんて、そんなのは小説の中だけのことだろうと。
だが、そんなアルバンの心をすっかり変えてしまったのが、マーヤだ。
マーヤは、アルバンが心の内をさらけ出せる数少ない友人ロルフの家で働くスカラリーメイドだ。スカラリーメイドとは、いわゆる皿洗い女中であり、メイドの中でも一番格下とされる立場だ。上位貴族ともなれば、末端の使用人であっても最低限男爵子女の身分が求められるが、ロルフは伯爵家。スカラリーメイドレベルであれば、裕福な平民の娘でも認められることはゼロではない。
とはいえ、貴族であるアルバンとスカラリーメイドのマーヤが出会うなど、本来はあり得ない話。出会ったのはロルフの家ではなく教会だったからこそ、出会えたというべきか。
その日、アルバンは母に頼まれて教会本部に寄付を運んでいた。現金こそ融通が利くから良いという意見もあるが、アルバンの母は現金以外に必ず自らの手で作ったものを加えるようにしていた。それは孤児院の子どもたちのための服であったり、教会のバザーで売れるような刺繍のハンカチであったりといった具合である。
本部に現金と子どもたちのための本を30冊ほど寄付し、寄付の内容証明を書いてもらった後、アルバンは礼拝堂に足を運んだ。教会本部というだけあり、大聖堂ともいうべき荘厳さと広さと高さを備えた礼拝堂。そこには神の国を表現したという、色とりどりのステンドグラスがはめ込まれ、教会の白い壁を虹のように見せている。
いつものように祈りを捧げようとお気に入りの席に向かった時、その場所に一人の女性がいるのに気付いた。
身なりからすれば貴族ではないが、最下層暮らしということでもない。むしろ、何らかの理由で借金を背負った貴族子女よりも質の良いものを着ているように見受けられる。
女性が祈りを終えて頭をあげ、目を開いた。そして、傍に立つ女性はアルバンに気付いた。
「あの、何か……」
そこでアルバンが貴族であることに気付いたのだろう、慌てて頭を下げると、話しかけるなどご無礼をお許しください、と言った。
「ここは教会だ。そんなにかしこまらなくていい。普通に話してくれて構わない」
本当に? という目で女性がアルバンを見た。
「今、あなたのいる席に、僕もいつも座っているんだよ。それで気になっただけなんだ」
「申し訳ございません、すぐに退きます! 失礼しました!」
まるで小鹿のように跳ねながら、女性は礼拝堂から飛び出していった。
「なんとも忙しない娘ですな」
侍従のあきれたような声に、アルバンは「平民だからできることだよ」と言った。
「エリーゼがあんな動きをするなど、ありえないだろう?」
「若奥様が? 確かに、貴族女性は小鹿ではなく、白鳥であらねばなりませんからね」
「白鳥か。いい表現だな」
「ありがとうございます」
なるほど白鳥か、とアルバンは思った。美しく優雅に泳いでいるように見える白鳥は、水面下で水かきのついた足を全力で動かしている。見えないところで恐ろしいまでの努力を重ね、涼しい顔で優雅に振る舞う。そういう意味では、貴族女性はまさに白鳥だ。
尤も、白鳥という鳥は極めて攻撃的で気性が荒く、尊大な生き物であり、そんなところも似ているのだが。
いつもの席で祈りをささげると、アルバンは帰宅した。通りすがりの小鹿のような女性のことなど、すっかり忘れていた。
数日後、ロルフに招かれて晩餐を共にしたアルバンは、女性談義になったところでふと、あの小鹿のような女性のことを思い出した。
「そう言えば、教会で面白いものを見たんだ」
「なんだい?」
「小鹿のようのぴょこぴょこ走る平民の女性だ」
「小鹿? それは俺も見たかったな」
「ああ、あれは貴族女性ではありえない」
「確かに5歳の子どもであっても、貴族ならば小鹿にはならない」
「そうだろう? その後姿が何とも言えずかわいらしかったんだよ」
「可愛い、か?」
「ああ。普段見慣れないものだったからだろうな。すっかり忘れていたが、ロルフとどんな女性が素晴らしいか話している間に、ふと思い出した」
「おい、小鹿が素晴らしいのか?」
「いや、素晴らしくないから思い出したんだよ。僕たちは素晴らしい人間であれと言われて育ってきたが、素晴らしくなくても生き生きしている奴らもいるんだなって」
平民女性たちは、貴族女性とはまた違った形で力強く、したたかに生きている。いや、そうしなければ生きていけないだろう。
「うちのメイドにも平民がいるが、あれはどうなんだろうな」
「へえ、平民でも雇うのか?」
「うちは『使用人と言えども全員貴族であるべし』なんて思っていないからな。それに、平民の中でもそれなりの言えであれば教育もされているから最低限のことはできる。ただ、お嬢様扱いされて育った奴は面倒くさい。平民が貴族の侍女になれるわけないのに、どうしてメイドなんだって大声をあげるようなのもいるんだ」
「井の中の蛙というやつだな」
ふと、アルバンは平民のメイドに興味を持った。
「なあ、ロルフ。平民のメイドが働いているところを、こっそりとのぞかせてもらえないか?」
「なんだよ、それ。頭でもおかしくなったのか?」
「いや、領地があって、領民とは話したこともある。だが、それはみんな村長だったり、商家の会頭だったりする。つまり、小鹿以外の平民女性というものを、馬車の窓の向こうにしか見たことがないんだ」
「ああ……それって、単なる興味だよな?」
「もちろんだ」
「普通、下っ端のメイドなんぞが主家の人間の目に入らないようにしていることは理解しているよな?」
「当然だ」
「ちょっと待ってくれ。一応、家令に相談する」
ロルフは家令を呼び、アルバンの希望を伝えた。
「平民の暮らしぶりを知る一環ということでよろしいのでしたら。ただし、お声がけはお控えいただけますか? 彼らには貴族への直答を許しておりませんし、仕事の手を止めさせたくはないのです」
「協力、感謝する」
家令の後ろについていったアルバンは、いくつかの部屋で作業をしている使用人たちの様子を見て回った。
昼間の作業のために鋏や鎌を研ぐ庭師たち。
馬の世話をしながらその隣で藁に背を預けて居眠りをする厩番の者たち。
「あれは、後で注意しておきます。見苦しいものをお見せしました」
「いや、馬と信頼しあっているのがよくわかるよ」
冷静に考えれば、自分の家の使用人たちがどのように働いているかなど、考えたこともなかった。下位貴族も平民もなく、協力し合って作業を進めている。それがなぜか尊いことのように感じられた。
「最後は厨房です。料理人たちは明日のために必要な仕込みをしております。また、スカラリーメイドたちが使い終わったものを洗い、最後に清掃をして終わります。厨房は朝早くから夜は遅くまで仕事をしている者たちになりますね」
「そんな激務なのか」
「はい。肉体労働ですよ。スティルルームメイドに昇格すれば結婚時に箔が付きますので、人気の職になります」
扉を少しだけ開けて、家令が中の様子を見せてくれる。バタバタと走る者、大きな鍋を持つものなどでがやがやとしている。片付けと明日の仕込みをしているということは、食事前・食事中などは厨房は戦場のようになっているだろうと想像できた。
「あれは?」
目の端に、重たい鍋を持ってぴょこぴょこと歩く若い娘が映った。
「ああ、スカラリーメイドです。一番の下っ端なので担当が鍋磨きなのでしょうな、毎日遅くまで鍋を磨いておりますよ」
「大変だな」
「ええ。時々鍋やフライパンの焦げ付きを、親の仇のような目で睨みつけている時がありますよ」
思わずふっと笑い声が出てしまった。誰かに呼ばれたのか、ぴょこぴょこスカラリーメイドが「はい!」と言って振り向いた。
「あ」
アルバンは思わず大きな声を上げた。厨房は騒がしいので誰も気づかなかったようだが、アルバンや家令は大慌てだ。
「静かになさいませ」
「すまない」
「どうしたんだよ?」
ロルフが気づかわし気に尋ねた。
「いや、あのスカラリーメイドが例の小鹿娘にそっくりだったんだ」
「あれが? あれの名前は分かるか?」
「マーヤでございますか?」
「だそうだ」
アルバンは意味ありげな目をした。
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夜遅くに上機嫌で帰宅したアルバンを迎えてくれたのは、結婚して4年の妻、エリーゼだ。
「ずいぶんと楽しかったご様子ですわね」
「ああ。気の置けない友人が貴族の中にもいるというのはありがたいことだよ」
「さようで」
エリーゼの背筋はピンと伸び、化粧も髪型も一切崩れていない。おそらくアルバンの帰宅に備えて化粧直しをしたのだろう。
全く隙がない。
そういえば、エリーゼが心から笑っているのを見たことがないな。
アルバンは「エリーゼ。笑ってみてくれないか?」と言った。
「笑う?」
「ああ。そう言えば、君が微笑んでいるのを見たことはあるが、笑った顔は見たことがないなと思ったんだ」
「旦那様」
「なんだい?」
「笑いたくなるようなことが起きなければ、人間、笑えませんのよ」
ぴしゃりと言い切られ、アルバンはやはりそうか、と思った。貴族女性を「白鳥」と評した己の侍従は、やはりセンスがあるようだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
翌月、再びアルバンは母からの預かりものと寄付金を持って教会本部に出向いた。そして、礼拝堂に向かった。
「いる」
アルバンは、お気に入りの席で一心不乱に祈っている、見覚えのある赤毛を見つけ、知らず微笑んだ。
「まさか、小鹿娘ですか?」
「どうやらそのようだ」
アルバンは赤毛の小鹿娘の二つ隣にそっと腰を下ろした。一心不乱に何を願っているのだろうかと思うほど長く祈りを捧げている。
祈りが終わったのか、小鹿娘は顔をあげて目を開いた。
「あ」
また小鹿が跳ねるように立ち上がってお辞儀をし、立ち去ろうとしたその娘に、アルバンは思い切って「マーヤさん、か?」と声をかけた。
「え……」
今度は不審者を見る目でアルバンを見ている。
「そうだったか。僕はロルフの友人でね。君はロルフの屋敷で働くスカラリーメイドだろう? 先日ロルフの屋敷で見かけたよ」
「な、なんで!」
うろたえて逃げ出そうとするマーヤを見て、アルバンがくすくすと笑った。
「驚かせたことは詫びよう。先月ここで会った君とそっくりだったから、もしかしてと思って確認しただけだ」
「若様のお客様?」
「客と言うよりも、親友だな」
「あ……もしかして、ヴェリンガー家の若様ですか?」
「当たり」
「あ、さようでございましたか。失礼いたしました。それでは」
「待ってくれないか?」
「え?」
アルバンの脳裏に、ちょっとしたいたずらがひらめいた。
「先月、ここで君を見た時から、君のことが気になっていたんだ。僕は貴族で既婚者だから交際しようなんて言わない。だが、平民の生活について知る手段がなくてね。こんな言い方は何だが、友だちとしていろいろ教えてもらえないだろうか?」
「な! ヴェリンガー家の若様のご命令であっても、それは」
「だめかな?」
アルバンはシュンとした表情で目を伏せた。
「あ、その、でも、あ~」
「お・と・も・だ・ち でも、だめ?」
周囲の礼拝客が、何事かとこちらを見ている。マーヤは四面楚歌の状態だ。
「あの、わかりました、わかりましたから、そんな顔しないでください!」
「やった! それじゃ、早速聞きたいことがあるんだ。うちの馬車に乗りなさい」
「……誘拐じゃないですよね?」
「ヴェリンガー家の名に懸けて」
「わかりました」
御者台の方に行こうとするマーヤを、「いいから」と言って無理やり馬車に押し込むと、アルバンは極めて上機嫌な様子でマーヤに貴族と平民の生活の違いについて、根掘り葉掘り聞きだした。
「あの、この馬車はどこへ向かっているんですか? なんだか先程も見たような建物が……」
「君の話が終わるまで、適当に走らせるようにと御者には言ってあるから心配いらないよ」
「それ、心配しなきゃいけないです!」
マーヤがまるで、小鹿と言うよりも毛を逆立てた子猫に見えてくる。アルバンがさらに構い倒そうとするのを、馬車の中を二人だけにするわけにいかないと無理やり乗り込んでいた侍従がそっと制した。
「マーヤさんももうお疲れの御様子。せっかくのお休みなのですから、マーヤさんだって済ませたい用事もあることでしょう。この辺りで解放して差し上げるべきでは?」
気付けば日も傾き始めている。べそをかきそうなマーヤの顔に気付いたアルバンは、やりすぎたと反省した。
「悪かった。ロルフの屋敷まで送るよ」
「少し離れたところでお願いします。他の人に見つかるとうるさいので」
「わかった」
マーヤは途中、どうしても郵便局に行きたいと言った。外国にいる友人に手紙を出すのだという。
「外国に友人がいるのか?」
「はい。うちは王都に店を構える商家なのですが、その人も商家の人間で、お父さんと一緒にうちの店に何度も来ていたんです」
「子ども連れで諸国を回っている商人か」
「私も行きたいとお願いしましたが、絶対に安全だと言い切れない場所もあるから、よその家のお嬢さんは連れていけない、って言われました。手紙のやり取りだって、あの人が自宅に帰ったタイミングで返事を書くわけですから、そんな頻繁にはできないんですけど、でも、私には見ることも行くこともできない外国の、いろんな話を書いてくれるのが楽しくて」
「いい友だちなんだな」
「はい!」
「僕も、同じくらいの友だちになりたいな」
「それは、これからの若様次第では?」
「そういうものか?」
「そういうもの、です」
ロルフの屋敷から少し離れたところに馬車を停めると、マーヤはぴょんと馬車を下りた。
「またな」
「それはどうでしょう?」
マーヤは曖昧な笑みを浮かべた。
「貴族の若様にお目にかかるようなことは基本的にありませんので、これが最後かもしれませんよ?」
「そうしたら、君の休みを確認して、礼拝堂に行く」
「本気ですか?」
マーヤが目を丸くして言った。
「言っただろう、うちの領地の者と話す時、女性の声は聞かせてもらえない。だから、平民女性の声を拾える数少ないチャンスなんだよ」
「本当に、領民のために、私の声を聴いてくださるのですか?」
「もちろんだ」
「わかりました」
マーヤはふわっと微笑んだ。
「いい領主様になっていただくお手伝いをするのなら、私も頑張ります」
さようなら、そういってマーヤは去っていった。
「さようならなんて、やはり所詮平民ですね」
侍従がそう言ってアルバンを振り返った時、侍従は見てしまった。
(若奥様に秘密ができてしまったな)
夕日に照らされたアルバンの顔は、確かに夕日以上に赤く染まっていた。
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「マーヤちゃん!」
「え、ヴェリンガー家の若様?」
「アルバン様って呼びなさい」
「それはできません」
「ええ、僕、傷ついちゃうなあ」
ロルフの屋敷にやって来ると、アルバンは必ず厨房で洗い物をしているマーヤのところに顔を出すようになった。厨房の者たちは最初こそ厨房を覗かれることに畏怖していたが、そのうちに「どうやらヴェリンガー家の若様はマーヤが気に入っているようだ」と納得し、見て見ぬふりをするようになっていった。
「マーヤちゃん、今日は王都の平民が通う学校について教えてほしい」
「申し訳ございません、この仕事が終わるまでは対応いたしかねます」
「後でもいいよね、料理長」
「……はい」
「ほら、料理長もそう言っているから」
「お待ちください、私は仕事が」
「いいから、いいから」
アルバンにとっては、小鹿娘改め子猫のようなマーヤと話をするのは楽しく、いつだって参考になった。分かりやすく話をしてくれるマーヤ。いつも困ったような表情をするマーヤ。そんなマーヤがかわいくて、構いたくて、ついつい仕事の邪魔をするようなことが増えていく。
「なあ、アルバン。うちの使用人にちょっかいを出さないでくれないか?」
「ちょっかいなんて出していないよ。参考人から話を聞いているだけだ」
「でもな、屋敷の空気がおかしくなってきているんだ」
「え?」
「身分制度は、厳格でなければならない。それが緩むと下剋上が起きる。アルバンだってそう学んだよな」
「もちろんさ」
「お前は、平民の使用人がなすべき仕事を放棄させ、自分の興味関心のためだけに利用している。あれはお前との話が終わった後、冷たい空気の中、持ち場に戻って仕事をする。お前が彼女の一時間を奪えば、彼女の仕事終了は一時間後ろにずれる。最終確認をする使用人も、就寝時間が一時間遅れる。他の使用人たちからもクレームが来ているんだよ、ヴェリンガー家の若様の出禁か、マーヤの解雇か、どちらか選べってな」
「僕の出禁か、マーヤの解雇? どうしてそこまで極端な話になるんだよ」
「そこまで混乱が起きているってことだよ。なあ、頼む、アルバン。この件で父が出てきたら、どちらかではなく、両方になる可能性もある。マーヤは解雇されたとなれば、次の仕事にはありつけないし、縁談だってまとまらなくなる。その方がかわいそうじゃないか?」
「だったら、うちで雇う」
「やめろ、エリーゼ夫人はお前たちの仲を疑うぞ」
「何も悪いことはしていない。浮気だってしていない。今までだってエリーゼのことは相応に大切にしてきた。一つくらい、欲しいものを欲しがったっていいじゃないか」
「だめだ」
ロルフは冷たく言った。
「マーヤが子爵令嬢であったなら、第二夫人として迎えることもできただろう。だがあの子はただの平民だ。貴賤結婚は認められていない。それでもあの子を傍に置くというのなら、ただの日陰者だ。お前はあの子を、人から後ろ指指されるような身に落とすつもりか?」
「そんなつもりでは……」
「だが、お前がしていることはそういうことだ」
ロルフの言葉に、アルバンはうなだれた。
「わかった。僕がここに来ることを止めるよ。代わりに、ロルフがうちに来てくれ」
「出禁の意味、分かっているか? これまでのような付き合いはできなくなるということだぞ」
「……っ、それって、うちとの関係を切るということか?」
「父はそれも辞さぬと言っている」
「お遊び」が、思いがけぬ方向に大きくなってしまっていることにようやく気付いたアルバンは、肩を落とした。
「わかった。任せる。手紙だけ渡してくれないか?」
「最後だな?」
「ああ」
アルバンはロルフの机を借りてマーヤに手紙を書いた。勤め先に困ったらヴェリンガー家を訪ねるようにとも書き、ロルフに渡した。
「今日は帰るよ」
「ああ」
真冬の風が、馬車をきつくたたく。背後に見たロルフの屋敷は、いつになく冷たく凍え黒く沈んでいるように見えた。
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「あら、お戻りでしたの?」
私室をノックしたら返事があったので、アルバンはエリーゼの部屋に入った。エリーゼはソファに座って優雅にハーブティーを飲んでいるが、いつになく棘を含んだエリーゼの言葉に、アルバンは違和感を覚えた。
「ああ、今戻った。どうした? 体調でも悪いのか?」
アルバンはエリーゼの向かいに腰を下ろした。
「なぜです?」
「いや、出迎えがなかったから」
「よその女に会いに行った夫を丁寧に出迎えるようなできた妻ではありませんので」
「は?」
アルバンはエリーゼの口から出た「よその女に会いに行った」という言葉に唖然とした。
「何を言っているんだ? 僕は平民の女性が領主に求めることをヒアリングしていただけだ」
「ずいぶん楽しそうにしていらしたわ。わたくしには見せたことのないようなお顔でしたもの」
「!?」
「あら、そんな顔なさらないで。わたくし、あの女と旦那様がお話なさっているところを、何度も見ていますのよ」
「どういう、ことだ?」
「そのままですわ。だって旦那様ったら、我が家の家紋が入った馬車に彼女を載せてあちこちお出かけになるんですもの。わたくしも何度か目にしましたし、教会にもいらっしゃったでしょう? いろいろな方面の方から報告をいただきましたわ」
「本当に、彼女とは何もない。ヴェリンガーの血にかけて嘘偽りは言っていない」
「そんなことはどうでもよいのです」
エリーゼが立ち上がった。冷酷な目で向かいに座るアルバンを見下ろした。アルバンはその目に射られてソファに縫い留められたように動けない。
「旦那様は、わたくしを蔑ろにしないという契約を破りました」
「蔑ろになどしていない!」
「いいえ。旦那様が女性を連れまわしている、その噂一つで、わたくしの立場が悪くなるのです。そんなことも想像できないほどおつむの弱い方とは一緒にいられませんわ」
「待ってくれ、家どうしの……」
「家どうしの契約については、既にわたくしの父と旦那様のお父様との間で内容の更新が済んでおりますわ」
「聞いていないぞ!」
「ええ、だって旦那様のお耳には何一つ入れぬようにと厳しく伝えましたもの」
「エリーゼ、そなたまさか」
「ふふ」
エリーゼはまさに白鳥の女王のような微笑みと貫禄でアルバンに宣告した。
「離婚いたします」
アルバンの顔が真っ青になった。
「あとは旦那様の署名を残すのみとなっておりますので、今日中にご署名くださる?」
立ち上がれないアルバンを見て、エリーゼはふんと鼻を鳴らした。
「誰か、旦那様を私室にお連れして」
「は」
従僕と護衛の騎士がアルバンに近づくと、「失礼します」と声をかけてアルバンを立ち上がらせた。
「お部屋へ参りましょう」
「……」
その夜、アルバンは自分が何をしたのか、全く覚えていない。太陽が昇った時、自分が私室の机を前に座っていたこと、全く着替えていないこと、そして自分の目の前に離婚に関する書類が置かれていたことにようやく気付いた。
「エリーゼにとって、僕は本当に『手段』でしかなかったんだな」
ぽつりとつぶやいた言葉は、誰の耳に入ることもなかった。
同時に、初めて、自分がマーヤと離れたくないと思っていることに気付いた。これが、エリーゼとの間には生まれなかった恋だということも。
・・・・・・・・・・・・
エリーゼとの離婚が成立し、エリーゼが実家から連れて来ていた使用人たちもこの屋敷を出て行ってしまった。静かになった屋敷にいるのがつらくて、アルバンはロルフの屋敷に行った。
「彼女に会わせろとは言わないが……元気にしているか?」
ロルフはピクリと動きを止めた。
「何も聞いていないのか?」
「何かあったのか?」
「そうか」
ロルフは右手でこめかみを揉みながら言った。
「修道院に無理やり入れられたよ」
「は?」
アルバンは聞き捨てならない言葉に動揺した。
「どういうことだよ」
「どういうこともなにも、全部お前のせいじゃないか、アルバン」
「僕のせい?」
「君の元妻の御実家が動いたんだ」
アルバンの背を冷や汗が伝った。
「あの家はみな苛烈だからな。娘の名誉を傷つけた元凶であるアルバンのことを許さないのはもちろん、あの子のことも許さなかった。無理やり引きずっていったよ」
「どうしてこの家に入りこめたんだよ! いくら高位貴族だって、他の貴族家に強引に入り込むなんてできないだろう?」
「父だよ」
ロルフは吐き捨てるように言った。
「父は、アルバンの行動に苦言を呈していた。あの子が貴族に逆らえずに困っていただけだと知っていても、貴族女性を傷つけた罰を受けるべきだと考え、エリーゼ嬢の実家と連絡を取り合っていた」
「そんな……」
「修道院に連れていくとは言っていたが、本当かは確認できない。問題を起こした子女の病気療養は名目だけだということを、アルバンだって知っているだろう?」
「まさか、手に掛けたというのか?」
「可能性は否定できない。生存を確認する手段が、俺にはない」
アルバンはそのままロルフの屋敷を飛び出した。特別厳しいと言われている修道院を目指した。
「お願いです、マーヤと言うものがいるかどうか、それだけでいいのです、教えてください!」
修道院の前で大声を上げ続けたアルバンに、院長は冷たく「お帰りください」と言い続けた。
「この中に誰がいるか、それを明かすことは禁じられております。外界と隔絶されて身も心も清らかになった上で神の国に召されるまでの日々を過ごす場所なのです。大声を上げるあなた様のような方が来て良い場所ではありません!」
アルバンはそれでもあきらめきれず、毎日毎日修道院に通い続けた。追い返されても追い返されても、アルバンは通うのを止めなかった。
「アルバン様、毎日あの修道院に通い詰めていらっしゃるって本当ですか?」
エリーゼからの手紙が届いたのは、3か月後のことだった。
「もし本当なら……いいえ、アルバン様がうるさくてかなわないから何とかしてくれと院長に泣きつかれましたの」
何が書かれているのか。
それ以下には何も書かれていない。二枚目も白紙だ。
「エリーゼは何が言いたかったんだ?」
手紙を分別箱に入れようとして手元が狂い、ランプの方に向かって飛んでいってしまった。
まずい、燃えてしまう。
軽く炙られた手紙の白紙の部分に、文字が浮かび上がった。アルバンははっとして手紙を一度手に取ると、燃えないように火との距離を見極めながら炙り続けた。
「炙り出しか!」
エリーゼからの手紙には、日時が炙り出しで書かれていた。
「明日の10時だな。ありがとう、エリーゼ」
アルバンはエリーゼのいる方向に向かって頭を下げた。
翌朝9時に家を出たアルバンは、9時半には修道院の前に着いた。いつもと違うのは、馬車から降りてすぐに大声を上げるのではなく、ただ静かにその扉の前で待ち続けたことだ。
10時きっかりに、アルバンの目の前の扉が開かれた。
「この扉の向こうでは、一切声を出さないと誓いますか?」
「はい」
「では、ついていらして」
院長はアルバンを入れると、護衛と侍従を拒んで扉を閉め、鍵を掛けた。院長に導かれるまま少し開けたところに出ると、どうやら畑なのだろうか、農作業をしている修道女たちが見える。
「こちらにはおりません。上をごらんなさい」
扉の向こうからは木々に遮られて見えなかったが、高い建物が見える。その上の窓に、マーヤの顔が見えた。
「……!」
思わず名を呼ぼうとして、アルバンはすんでのところで声を止めた。
「いいでしょう。そのまま声を出さないでください」
アルバンは頷いた。うつろな目をしたマーヤが、空を呆然と見ている。
「彼女は巻き込まれて自由を失いました。恋していた隣国の男性との手紙もやり取りを止められました。その男性も、別の女性と結婚するようにと命じられたそうです」
アルバンは深く後悔した。貴族の自分と平民のマーヤとでは、何かあった時の扱われ方が違うということを失念していた。エリーゼの実家がマーヤに対して報復してくるとは予想さえしていなかった。そんな甘い見通しの中で、ふわふわとマーヤと過ごす時間を楽しみ、結果的に何もかも壊してしまった。
すまない、マーヤ。
畑に蜂が現れたのだろうか、キャッという修道女の甲高い叫び声に、みなわらわらと建物に向かって逃げていく。
「静かにしていれば、蜂など攻撃してこないのに。騒ぐから蜂も攻撃しなければならなくなるのですよ」
エリーゼたちは蜂と同じということか。
修道女たちの悲鳴に、マーヤの視線が下に降りてくる。そしてそのうつろな目にアルバンが映った時、驚きで目を大きく開いたのが見えた。
『マーヤ、すまない』
アルバンは口の形だけでそう伝えた。
『君のことを、気づかぬうちに愛してしまっていた』
マーヤはゆるゆると首を横に振った。
『君に会う手段さえあれば、何としてでも君の所に会いに行くのに』
マーヤは再びゆるゆると首を横に振ると、窓際から立ち上がった。そして、奥の方へと立ち去ってしまった。
「あれが、あの子の答えです」
「……」
アルバンはそのまま院長に連れられて扉の所に戻った。
「そういうわけですので、どうかあの子のことは放っておいてあげてください。もし、あの子のためになりたいとおっしゃるならば、この修道院の者が飢え凍えることのないよう、食べ物と布と燃料をご寄付いただければと思います。特にあの高い塔は、冬、冷えますので」
パタリと扉が閉じられ、鍵を掛ける音がした。
アルバンは黙ったまま馬車に乗った。侍従が何を聞いても、何一つ話さなかった。
ただ、冬の前になると、その修道院に莫大な寄付をするようになったらしい。
名(名詞)に(格助詞)し(副助詞)負は(動詞・ハ四未然)ば(接続助詞)
逢坂山(名詞)の(格助詞)
さねかづら(名詞)
人(名詞)に(格助詞)しら(動詞・ラ四未然)れ(助動詞・受身未然)で(接続助詞・打消)
くる(動詞・ラ四連体)よし(名詞)もがな(終助詞)
※未然形+ば →仮定条件(もし~ならば)
※名に負う →という名を持つ(そんな立派な名を背負っている、というニュアンス)
※逢坂山 →滋賀県と京都府の境にある山。「逢」という字が含まれることから、人と会うこと(特に男女間の逢瀬)に関連する語として使われる。
※「れ」→ 受身・尊敬・自発・可能の助動詞「る」の未然形。「知る」のような知覚動詞と共に使われる時には「自発」の意味で用いられることもあるが、ここでは「人に」という形で「誰かに〇〇される」という解釈要素があるため「受身」となる。
※「で」→ 打消の接続助詞。現代語でいう「~(し)ないで」に相当。
※「来る」→ ここでは相手から見て「来る」=「行く」と解釈。「あなたを連れ出す・ここに連れてくる」という説もあるが、当時は男性が女性の元に通う「通い婚」が一般であり、同居するのは正妻格のみであることを考えると、「連れてくる」は正妻格ではなかった女性を正妻として連れてくることになってしまう(性的関係も含む側仕えである召人なら可能か?)ということになるため「相手から見て自分が『来る』」とした。
※もがな →願望の終助詞。も+がな の複合。




